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廣宮孝信 ひろみやよしのぶ

Author:廣宮孝信 ひろみやよしのぶ
工学修士(大阪大学)、都市情報学博士(名城大学)。
2009年、著書「国債を刷れ!」で「政府のみならず民間を合わせた国全体の連結貸借対照表(国家のバランスシート)」を世に送り出した経済評論家、"国家破綻セラピスト"です。
「アイスランドは財政黒字なのに破綻!」、「日本とドイツは『破綻』後50年で世界で最も繁栄した」--財政赤字や政府債務GDP比は、国家経済の本質的問題では全くありません!
モノは有限、カネは無限。国家・国民の永続的繁栄に必要なのは、国の借金を減らすとかそんなことでは全くなく、いかにモノを確保するか。モノを確保し続けるための技術投資こそがカギ。技術立国という言葉は伊達にあるわけではなく、カネとか国の借金はそのための手段、道具、方便に過ぎません。
このように「モノを中心に考える」ことで、国の借金に対する悲観的常識を根こそぎ打ち破り、将来への希望と展望を見出すための”物流中心主義”の経済観を展開しております。”技術立国・日本”が世界を救う!
 お問い合わせは当ブログのメールフォーム(下の方にあります)やコメント欄(内緒設定もご利用ください)や、ツイッターのダイレクトメッセージをご利用ください。

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607:「公共事業を急ぐほかはない」と日経:17面の目立たない記事ですが…

2014/03/17 (Mon) 13:12
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本日付の日経新聞に興味深い「消費増税の悪影響を懸念し、公共事業を急ぐしか無いと言ってます」と読める記事がある、と日本経済復活の会の小野誠司会長から教えて頂きましたので紹介します:


----

【景気指標】 問われる成長のカタチ

日本経済新聞 2014年3月17日


日銀が11日の金融政策決定会合で輸出の現状判断を「横ばい圏」に引き下げた。黒田東彦総裁は会合後の記者会見で「一時的」と繰り返し、中国などの春節(旧正月)といった要因を事細かに説明した。停滞が長引くと景気回復シナリオにも黄色信号がともる。そんな危機感の裏返しにも思えた。


日本経済研究センターがまとめた3月のエコノミスト予想によると、2014年度の実質成長率は0.72%。4月の消費増税を控えた駆け込み需要は13年度に含まれ、反動源が14年度に出る。2%台の成長が見込まれる13年度からの減速は、やむを得ない。問題は数字ではなく中身だ。



「13年度の景気のけん引役は家計と政府(公共事業)だったが、14年度は企業に交代する」。第一生命経済研究所の新家義貴主席エコノミストはこう語る。



まず個人消費。消費増税に伴う駆け込み需要の反動減という一時的な要因だけではない。増税による家計の購買力の低下はその後も続く。円安を背景にした物価の上昇も、実質的な所得減となる。



春季労使交渉では主要企業が相次いで賃金のベースアップを回答したものの、増税や物価上昇に伴う悪影響のすべては穴埋めできそうにない。政府が見込む雇用者報酬2%増が実現しても、「補えるのは、3分の2程度」(新家氏)という。もう一方の主役だった公共事業も、よほど大規模な景気対策を打たない限り、さすがに伸びは衰えそうだ。



企業は主役になれるか。円安下の輸出停滞には日本企業の競争力低下もささやかれる。それでも世界経済の緩やかな回復を踏まえれば、輸出はもう少し伸びるだろう。設備投資も企業収益の改善や先行指標から判断すれば、そろそろはっきり持ち直してもいいはずだ。日銀やエコノミストの多くはそんなふうに期待する。



主役が交代できなければ、景気後退が現実味を帯びる。避けるには政府みずから主役に名乗り出て、公共事業を急ぐほかはない。問われる「成長のカタチ」。アベノミクスの行方にも大きく関わる。

(編集委員 大塚節雄)

----


17面という目立たないところの記事ですが、

「主役が交代できなければ、景気後退が現実味を帯びる。避けるには政府みずから主役に名乗り出て、公共事業を急ぐほかはない。」

という現実的な記述には、大いなる好感を持てると感じるのは私だけでしょうか?


少なくとも

「主役が交代できなければ、景気後退が現実味を帯びる。避けるには政府みずから主役に名乗り出て、TPP妥結移民推進政策などのグローバリゼーションを急ぐほかはない。」

などと書いていない点は大いに評価して良いのではないかと思う今日この頃であります。


ここで、「移民推進政策」その他のグローバリゼーションについて少しだけ雑感をば。


今般のウクライナ、クリミアの問題を見ていると、多民族国家というのがいかに難しいかということの明示的な現れと感じずにはいられません。

西側の政治家(日本含む)の皆さんは「銃を突き付けた住民投票は無効」と言います、それはそれで一つの見方でしょう。

一方、ロシアメディア(RT.com)のニュース動画をみていますと、クリミアのロシア系住民は、今回のウクライナの政変で親欧米の暫定政権がロシア語を公用語から外したことに怒り心頭となっているということもあるようです(ちなみにNHKの「海外ネットワーク」という番組でもそのことは報道されていました)。


欧米側(日本含む)とロシア側とでは違うことを強調していますが、両方とも正しい部分があり、両方とも間違っている部分があるというのが正確なところではないでしょうか。

立場が違えば、見方が違うというのが当たり前であります。よって、異なる民族が共存するのはそれだけ難しいということになろうかと思います。

それゆえに、仮に日本において移民を大規模に受け入れるということをやるならば、それには大きな困難を伴うことになるでしょう。

そのようなことは欧米でとっくの昔に明らかになっている問題ですが、日本でも例えば沖縄に多くの米兵が駐留している時点で多くの摩擦を生じており、常に大きな政治問題であり続けていることにも留意すべきでしょう。

この点から類推すれば、移民を大規模に受け入れることを推進するとなると、問題がさらに複雑化することになることは間違いないでしょう。


このような「民族の違い」の問題に対応する上で有用な視点は、次のようなものではないかと私は考えます:

(1)他の民族が自分達の民族と違っていることを客観的に認識し、率直に認めて肯定する

(2)自分達の民族とあまりにも違いのある他の民族との接触は、最低必要限度に留める(互いに適正な距離を保つ)

このような考え方は、私が提唱しております「徳」のあり方、「ある考えとその正反対の考えを両方とも正しいと認め、肯定する」というあり方の延長線上にあります。

というのは、

「自分達の民族と、他の民族について、互いに適正な距離を保つ」というのは、「自分も他人も両方とも正しいと認め、肯定する」ということに等しいからです。

「自分だけが正しくて他人は間違い」つまり、「自分だけを肯定、他人を否定」するのはいかにもバランスの悪い形態になります。これはいわば、私益、私利私欲だけを追求し、公益を顧みないということになります。

一方、「自分は間違い、他人だけが正しい」つまり、「自分を否定、他人だけを肯定」するのもまたいかにもバランスの悪い形態です。これは、他人に隷従するような形になりますし、しかも、自分が公益の増大に最大限度貢献するための機会を実は奪ってしまうことになります(というのは、自分を否定し、他人に盲目に隷従することは、自分の能力を最大限に発揮するための機会を喪失することになるため)。

というわけで、「自分も他人も両方とも正しいと認め、肯定する」というのが最もバランスの良い形態であると考える次第であり、それが私の提唱する「徳」のあり方であります。

そして、これを個人から人間集団に拡張すると、「自分たちの民族も他の民族も両方とも正しいと認め、肯定する」という発想につながり、それを実践するための手法として、「自分たちの民族と他の民族について、互いに適正な距離を保つ」ということを発想できることになります。


というわけで、

余計な民族間の摩擦をこれ以上抱え込むことなく、日本経済の安定と繁栄を保つためには、いまのところ

 TPP - NO!

 移民 - NO!

 公共事業 - YES!

というのが無難、かつ、最適な選択肢
ということになるのではないかと思う、今日この頃であります。





 TPP - NO!

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606:「哲人宰相」李登輝 元台湾総統②――「どんなに小さくても良いから創造せよ」「自己を超越せよ」――個人の公益に対する貢献を極大化させるための道筋

2014/03/03 (Mon) 16:12
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前回の続きです。

今回は、李登輝さんがかなり力点を置いて語っていたトーマス・カーライル『衣装哲学』に関係する内容を中心に紹介させて頂きます。


前回書きましたように、その『衣装哲学』というのは

「生とは借り物。衣服に過ぎぬ」

というような思想ですが、李氏が自らの「人生の先生」としている新渡戸稲造の影響で知ることになったものです。
以下、李氏の講演の際に私が取ったメモに基づいて簡単に紹介してゆきたいと思います。


李氏によれば、この『衣装哲学』の要諦は

“永遠の否定”から“永遠の肯定”に至る過程

ということになります(と私は解釈しています)。

この言い回しを使って、前回書きました武士道の話、

死から出発して、いかに生きるかということを考えるのが武士道

を書き換えてみますと、

永遠の否定(=死)から出発して、永遠の肯定(=いかに生きるかということ)を考えるのが武士道

というようにつながるのではないかと思います。

私は、これが李氏が武士道の話から『衣装哲学』の話を展開したことの趣旨ではないかと解釈しています。


また、李氏が90年の人生で到達したという

我是不是我的我(私は私ではない私である)

という境地は、

「生とは借り物。衣服に過ぎぬ」 という『衣装哲学』の考えを別の言葉で言い換えたもの

とも言えるでしょう。


なお、

私は(1)私ではない(2)私である

という言葉は、

---

私は、

(1)私ではない→否定形

(2)私である→肯定形

---

と分解してみることもできます。


以上のような下準備をした上で、以下、『衣装哲学』の内容のお話に入りたいと思います。


※話の流れとしては、架空の哲学者を主人公としたような物語調になっているようです。


●第5章
主人公の哲学者が失恋、職業の失敗により、孤独に陥ります


●第6章
「巡礼」

主人公は巡礼に出るのですが、どこへ逃げても、内面の苦悩から逃げられないという状況に陥ります


●第7章 
「永遠の否定」

主人公は、
 ・孤独
 ・不信心
 ・懐疑
のどん底の状態です。


●第8章
「無関心の中心」
 主人公は、第7章の「永遠の否定(孤独、不信心、懐疑)」の状態から、一種の燃え尽きた状態、
 ・石灰化
の状態に遷移します。
 “灰”は白でも黒でもない中性の状態であり、 “否定の極から肯定の極へ移行するまでに避けて通れない状態”、ということになります。


●第9章
「永遠の肯定」
 主人公は、「永遠の否定→石灰化」という過程を経て、初めて人生におけるもっとも重要なことに気づくことになります。
 李登輝さんの言葉をそのままここで書くと、この「永遠の肯定」の段階とは、
「神から与えられた使命」
に気づく段階ということになります。
(※李登輝さんはキリスト教徒なのでこういう表現になりますが、「神」という言い方がいまいちなじまない方は、例えば、中国古典に出てくるような「天意」とかそういった言葉で置き換えて良いものと思います。なお、前回も書きましたが、李登輝さんは「信仰は宗教に限らない」と言っています。)


「神から与えられた使命」ということの一つが
「公のために働くべし」
ということになろうかと思います。

 この考えに至るには、辛い体験などのいわば自己を否定される体験とそれを克服する過程、すなわち「永遠の否定→石灰化」という過程が必要不可欠ということなのかもしれません。

 一方、このような否定から出発して肯定に至るという過程についての別のアプローチが武士道の「死から出発していかに生きるかを考える」 というアプローチということなのでしょう。


 さて、これに関して、前回に頂いたコメントによって私は、
「現代社会は医療や食糧生産が高度に発達した結果、昔よりも個々人が死から遠ざかっている。
昔は自分自身の死がもっと身近で切実なものであったため、
人々はかなり限られた人生をより有効に、有意義にしたいと意識し、よって、人々は言われなくとも公益を意識しやすい。
逆に、現代社会では自分自身の死がかなり遠いものとなったため、 人々は公益を意識しにくくなったのではないか」

ということに気づかせて頂きました。
 李氏が武士道を持ち出して敢えて死について我々に意識するように促したのは、このような理由もあるのかも知れません。


 死について意識することは、「永遠の肯定(≒公益を意識する状態)」に至るための「永遠の否定→石灰化」の過程を実体験できなかったとしても、それを疑似的に体験、あるいは、少なくとも想像するきっかけとして極めて有用となるといった具合でしょうか。

 また、李氏はこの「永遠の肯定」話をするときに次のような事をおっしゃっていました:
 ・どんなに小さくてもよいから創造せよ
 ・自己を超越せよ


ただし、私は講演の当日、この

・どんなに小さくてもよいから創造せよ
・自己を超越せよ

という言葉と

・公のために働くべし
・神から与えられた使命を行うべし

という言葉が、なんとなくはつながると思ったものの、 なかなか厳密につなげて考えることができませんでした。


が、1週間以上たって、以下のように考えるようになりました。

・どんなに小さくてもよいから創造せよ
・自己を超越せよ

というのは、言い換えれば、

・他人にはできない、自分にしかできないことをやりなさい

ということになります。

そして、
「他人にはできない、自分にしかできないこと」を効果的に行うことができるならば、それこそが個人の公益に対する貢献を極大化する道筋となる
ということになるのではないでしょうか。

これが、李登輝さんがいうところの「神から与えられた使命を行う」ことであり、 私が個人的に好む表現を用いれば「天命を行う」ことであろうかと思われます。


さて、以上のような李登輝さんの講演内容を踏まえた上で私なりの考えを簡単にまとめてみます:

「人生において可能な限り私益と公益を一致させ、その両者を同時にバランスよく増大させ、さらにはその枠組みの中において自分にしかできないような天命を果たし、個人としての公益に対する貢献を極大化させることができたとしたら、一人の人間としてこれほど幸福な生き方はないのではなかろうか」


※今回の李登輝さんの講演(より厳密には修学院 研修会)を拝聴する機会を与えて下さった修学院の皆さん、特に、お忙しい中、本業でも何でもないのに旅行の手配などをして下さった修学院の梅本大介さん、この研修会の参加を呼びかけて下さった行橋市会議員の小坪慎也さんに、この場を借りて心から感謝申し上げたいと思います。




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605:「哲人宰相」李登輝 元台湾総統①――「死から出発して生を考えるのが『武士道』」――新渡戸稲造は“人生の先生”

2014/03/01 (Sat) 16:25
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先月21日、台湾で李登輝 元台湾総統の講演を聞いて参りました。
非常に感銘深いところが多かったので、かいつまんで紹介させて頂きたいと思います。

※以下、
・当日の李氏の口述内容の廣宮によるメモ
・当日配布された二冊の冊子(いずれも、李登輝氏の著作)
 「人類と平和」(参考文献〔1〕)
 「特集『メメント・モリ』」(参考文献〔2〕)
を参照しながら書くこととします。


●「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」

李登輝さんは1923年、日本統治下の台湾・台北市に生まれました。
ご本人曰くは、日本の教養重視政策の恩恵を多分に受けることができ、若いころは死ぬこととは何か、生きることとは何か、ということを徹底的に考え抜く日々であったとのことです。

そのような死生観の思索をするなかにおいて出会った重要な思想の一つが、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)の『武士道』であり、李氏曰くは、

「死から出発して、いかに生きるかということを考えるか、が『武士道』」

ということになります。

※『葉隠(はがくれ)』で言えば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という発想法です。


さて、その新渡戸稲造は、実は台湾の農業と工業の近代化と発展に極めて重大な役割を果たしたのだそうです。
特に製糖業について、衰退しつつあった台湾の製糖産業(小規模零細が主)について、その潜在能力を新渡戸は日本内地の需要のみならず欧米に比肩し得るものだと看破し、台湾総督府 民政部殖産局長心得としてわずか3年の在任中に台湾の製糖業を確立(大規模、近代化)しました。それが1940年代にはハワイを追い抜き、台湾は瞬く間に世界屈指の砂糖産地となってしまったのだとのことです。

その新渡戸を台湾に招いたのが、第4代台湾総督の児玉源太郎によって民政長官に抜擢された後藤新平でした。

李氏によれば、その後藤新平は1,080人もの「役立たず」の官吏を解雇するという大ナタを振るい、新渡戸らのような有為な人材を台湾に招いたとのことです。
後藤がこのような辣腕を振るえたことの背景には、指導者たる者に必要不可欠な強烈な信仰があったはずであり、李氏はその後藤の信仰対象とは「天皇」あるいは「国家」ということではなかったかという推測を述べています(なお、李氏自身はキリスト教を信仰の対象としています)。

このように「『信仰』が無ければ指導者たり得ない」ということを学んだことから、李氏は「後藤新平は指導者としての先生」としています。
また、『武士道』を著した新渡戸から人生哲学を学んだことから、李氏は「新渡戸稲造は人生の先生」としています。

※ちなみに、ウィキペディアによれば、児玉源太郎は長州出身、後藤新平は仙台藩士の子弟、新渡戸稲造は盛岡藩主用人の子息です。つまり、旧“官軍”側の児玉が、旧“幕府軍”側出身の後藤を招き、その後藤が同じく旧“幕府軍”側出身の新渡戸を招いたことになります。
 李氏にとっての二人の重要な“先生”がともに、日本における旧“幕府軍”側出身者ということは、非常に興味深いところですが、自身の立場と重ね合わせる部分も大きいのかも知れません。
 というのは、李氏のような旧日本統治下で高等教育を受けた内省人(ないしょうじん)は、戦後、大陸からやってきた国民党軍から迫害の対象とされ、李氏自身も2.28事件(1947年)のような大量虐殺事件において命からがら逃げ延びたという経緯があるからです。
 自らを迫害した恨み骨髄の仇敵というべき国民党に入党し、数奇な巡りあわせによって蒋経国から後継者に抜擢され、ついには総統にまで上り詰めた李氏にとって、自らを“迫害”した官軍側の児玉から抜擢され、私怨を脇に置き、無私/公益重視の発想で国家に奉仕した後藤や新渡戸に対して大いなる親近感を覚えたのは、極めて自然なことではなかったかと思われます。



●李登輝哲学の真髄:「私は私でない私である」

さて、李氏の死生観/人生哲学の形成過程について簡単に要約するならば、

「“死”から出発して考えれば、無私、公益重視の“生”という考えにたどり着く」

ということになろうかと思います。


李氏曰くは、

・中国的な発想:「我就是我」(私は、私だ!)
→私益重視の発想=「生きる」ことについて「生きる」ことからしか考えない


・日本的な発想:「我是不是我的我」(私は、“私ではない私”である)
→公益重視の発想=「生きる」ことについて「死」から発想して考える


とのことです。

※ミクロで見れば、日本人だからと言って全員が公益重視かと言えば、決してそうではありませんし、中国人だからと言って全員が私益しか見えていないかと言えば、決してそうではないでしょう。
 しかし、確率統計論的に、あるいはマクロ的に見ると、
 ・中国:私益重視→無秩序、不調和、不均衡
 ・日本:公益重視→秩序、調和、均衡
の傾向が若干強いと言えるかも知れません。
 これは例えば、自動車の運転態度を観察すればよく分かります。
日本では、特に、関東辺りでは、車線減少によって二車線の車列が合流しなければならないような状況では、二列の自動車が交互に譲り合い、秩序だって一列に統合されます。
 中国では…私は10年ほど前、北京でタクシーに乗ったことがありますが、いやあ、それはもう凄まじかったです。彼の地でタクシーに乗ってみれば、別に誰かに追われているわけでも何でもないのに、ハリウッド映画なみのスリリングなカーチェイスを実地で体験することになります。現地の観光ガイドによれば、北京ではバイクに乗る人は最近は全くいなくなった、とのことでした。なぜならバイクになど乗っていれば確実に死ぬからです。
 このように見ると、日本はより秩序的であり、中国はより無秩序的であると言えないことはないでしょう。なお、日本でも関西においては関東ほどお上品ではありませんが、北京に比べれば確実に秩序的と言えます。



さて、参考文献〔2〕では、この「我是不是我的我」(私は、“私ではない私”である)という、李氏がこれまでの90年の人生において到達した境地について、次のような解説があります:

---
「私は私である」という、「私の生」の側からの生き方ではない、「神から与えられた生」を自覚して、己を尽くして生きる無私の生き方がそこにはある。

指導者として、あるいは、この世に生を享けた者にのみ「与えられる道」を生きる者として、次世代へ繋ぐ(つなぐ)確かな意志も、その言葉には込められている。

混迷の時代は、暗闇をもたらす「我は我なり」という人間の業に端を発する。

大変革の転換点にある今、時代は、日本人は、「私でない私」を経験できるか――。
---


ちなみに、講演の質疑応答の際、李氏は「いまはG0の時代(覇権国の無い時代)です」と発言しています。また、参考文献〔1〕において李氏は

---
国際的環境が現在のようにリーダーシップ国家がいなくなった時に、グローバル資本主義を強調する力のある国は、力の現実として、その力の行使を行うだろう。そうして正義を高く掲げて戦闘行為を正当化するような政策や言動をとるだろう。

国際的環境の変化によってもたらされた戦闘を正当化するような理念の先走った戦争を前にして、より現実を踏まえた慎重な政策が可能でないかと考えざるを得ない。人間の幸福な立場からして平和を模索すべきである
---

と書いています。
 つまり、李氏の現状認識は、世界の無秩序化ということになります。
 そして、そのような状況の中においては、政治指導者が無私・公益重視の思想をしっかりと持つことが極めて重要なのだ、ということになろうかと思われます。

 李氏が講演で最も強調して述べたかったことの一つは「私が日本人から学び取った無私・公益重視の思想こそが、これからの混迷の時代において、より一層重要なのですよ、日本人の皆さん!!!」ということではなかったかと拝察致します次第です。


 ちなみに私(廣宮)は、今年の1月3日の当ブログで、アメリカが世界の盟主を退こうとしていること、それでこれから日本は非常に困難な時期を迎えるであろうことを述べた上で、今こそ心理学や脳科学や生理学で経済や政治を考えることが重要であると主張しました。
 また、その際に核となりそうな「徳」という概念について、孔子や老子の言葉を引用し、それを主にフロイトやユングの心理学の枠組みを使って解説しました。

 このタイミングで李登輝さんの①世界の無秩序化という現状認識と、それゆえに②無私・公益重視の思想をしっかりと持つことが極めて重要とする思想に触れたことは、かなり感慨深いものがあります。

 李登輝さんの言葉を追っていると、恐らく「この混迷の深まる世界において、指導者はより一層、徳を積むべし」という主張をされているのかな、というのが私の解釈です。

 一方で私自身は、指導者のみならず、一般大衆がより一層各自で「徳を積む」ことを志向することが望ましい、と個人的には考える次第です。
 というのは、いくら国家の指導者が能力的にも人格的にも超人的に優れていたとしても、それを支える一般大衆たる国民がその指導者の人知れぬ努力や苦労を一切顧みることなく、「あいつは毎晩高級ホテルのバーで飲んでいやがった」とか「高級料亭で天ぷらを食っていやがった」とか「1000円もするカツカレー食ってやがった」などの、かなりどうでもいいような理由でその指導者をいちいち引きずり下ろすようでは、そんな国はどんなに頑張っても永遠に不安定なままとなってしまうように思えるからです。
 私の個人的な考えは、「国家の命運を決めるのは国民全体の性質(指導者の資質を含む)」であります。

 なお、私が『老子』の第28章から解釈した「徳」というのは、簡単に言うと「ある考えとその正反対の考えは両方正しいと考えること」です。
 この枠組みで生と死を考えると、生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」と考えることができます。


 そして、
 李登輝さんは死と生について、次のように述べています:

  死について:「死んだら自然に還るだけ」
(参考文献〔2〕)

  生について:「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」(講演での口述)


いかがでしょうか?

 この李氏の死生観を、ぜひ今一度私が先ほど書いた「生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」と合わせて読んでみて下さい。もし、何か感じるところのものがありましたら、当エントリーのコメント欄か、私のフェイスブックか、ツイッターに感想をお書き下されば幸いに存じます。


 さて、「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」というのはスコットランドのトーマス・カーライルの『衣装哲学』の引用であり、李氏はこれを新渡戸稲造による講義録でお知りになったようです。
 そして、講演で李氏はこの『衣装哲学』に相当な力点を置いて話されていましたので、次回はこの『衣装哲学』に関係する内容を中心に紹介させて頂きたいと思います。


 最後に、「“死”から出発して考えれば、無私、公益重視の“生”という考えにたどり着く」という李氏の死生観/人生哲学の形成過程について、私なりの解釈を書いておきますと、以下のようになります:

・「死んだら自然に還るだけ」である。

・また、一人の人間の生涯など、宇宙全体の数十億年の歴史に比べれば所詮一時的なものであり、「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」。

・上記のように死について考え、死から出発して生を考えれば、より高い水準の冷静さと客観性と理性を得ることができる。

・より高い水準の冷静さと客観性と理性を得ることができれば、「他者の利益をも増大することが結局は自己の利益を増大することになる、すなわち、社会全体の利益が増大して初めて自己の利益も安定的に増大する」という当たり前のことに気づきやすくなり、私益の増大のみならず公益の増大という目的意識を持つことが可能となる。
※李氏は私益についてあまり触れていませんが、公益の増大に貢献するための資力がまったく無ければ、どんな個人も公益に資することは不可能になると考えられます。
 例えば、「公務員は公益に資するべきであるから、全員無給で滅私奉公、ボランティアにせよ」というようなことは、どう考えても不可能です。
 よって、一人ひとりの個人の公益への貢献を極大化させるために必要な最低限度の私益の増大は、決して否定すべきではないでしょう。




 『武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり』

 というのは、

 『生きるとは、公益について考えることと見つけたり』

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