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廣宮孝信 ひろみやよしのぶ

Author:廣宮孝信 ひろみやよしのぶ
工学修士(大阪大学)、都市情報学博士(名城大学)。
2009年、著書「国債を刷れ!」で「政府のみならず民間を合わせた国全体の連結貸借対照表(国家のバランスシート)」を世に送り出した経済評論家、"国家破綻セラピスト"です。
「アイスランドは財政黒字なのに破綻!」、「日本とドイツは『破綻』後50年で世界で最も繁栄した」--財政赤字や政府債務GDP比は、国家経済の本質的問題では全くありません!
モノは有限、カネは無限。国家・国民の永続的繁栄に必要なのは、国の借金を減らすとかそんなことでは全くなく、いかにモノを確保するか。モノを確保し続けるための技術投資こそがカギ。技術立国という言葉は伊達にあるわけではなく、カネとか国の借金はそのための手段、道具、方便に過ぎません。
このように「モノを中心に考える」ことで、国の借金に対する悲観的常識を根こそぎ打ち破り、将来への希望と展望を見出すための”物流中心主義”の経済観を展開しております。”技術立国・日本”が世界を救う!
 お問い合わせは当ブログのメールフォーム(下の方にあります)やコメント欄(内緒設定もご利用ください)や、ツイッターのダイレクトメッセージをご利用ください。

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168:求む:本当の「背水の陣内閣」【1】

2009/06/13 (Sat) 19:26
http://x6.cho-chin.com/bin/ll?081850800
アクセス解析


福田政権発足時に

あとがない、という意味で「背水の陣内閣」

福田元総理が自ら名づけたのも今は昔
今昔物語ですが…


「背水の陣」の語源となった「井陘(せいけい)の戦い」は、

そういった「精神論的」な意味合いではなくて、

高度な戦術的意味合いのあるものでした。


さて、なぜこんな話をするのかというと、

一つには、軍事と政治あるいは経済は共通することが多いということと、

もう一つには、これ、本当は「国債を刷れ!」の締めくくりに使おうと思っていて
いままで書けていなかったので、

とりあえず書きます^^;



(この図は、「井陘の戦い」に関する複数の記述と、
 現在の井陘(中国河北省)のgoogleの地図や航空写真に基づいて、
 テキトーに作ってみました^^;)

さて、
舞台は紀元前204年、つまり今から2200年ほど前です。

の武将韓信が、魏の国を占領したあと、

上図のように、西の方から

井陘の道

という、山に挟まれた非常に狭い道を伝って

の国を攻めようとしていました。


この井陘の道の出口「井陘口」と呼ばれているのですが、

この井陘口から東は一気に広大な平野部(趙の領土)が広がっています。

そのため、
趙軍は「井陘口」に大軍を配備し、
韓信の東進を防ぐという戦術を採りました。


趙軍は20万(公称20万なので、実態は半分ぐらいだと思われます)
漢軍は約2万(これももちろん推定です)

です。


さて、
韓信率いる漢軍の接近を受けて、趙では軍議が開かれました。

その場で趙の李左車という将軍が、
私に3万の兵をお与え下さい。

間道を伝って、韓信の軍の背後に回りこみ、

韓信の軍の補給を絶ち、退路を断ち、挟み撃ちにすれば、

味方の勝利は間違いありません

という提案をしまいた。

しかし、

宰相である陳余(このときの趙は、秦が滅びたあと、陳余が立ち上げた勢力であり、王はお飾りなので、宰相陳余が趙の実質の支配者)は、
こちらは大軍を擁しているのに、

そんな姑息な策を弄すれば、諸国の笑いものになり、なめられるだけだ。

正攻法でやるべきだ

と、李左車の提案をにべもなく却下しました。


さて、これについて、史記にはこんな記述があるそうです
韓信、人をして間視せしめ、その用いられざるを知る

ここで、
「間(かん)」とは、「間者(かんじゃ)」の「間」、スパイのことです。

つまり、
韓信は、かなり強力な諜報網を持っていて、この趙の軍議の様子をしっかり把握したわけです。

これについては、
かつては陳余とともに趙国再建に尽力し、その後、陳余に追い出された
張耳という人物が幕僚として韓信の側に従軍しており、

その張耳の人脈をつてに、大金をバラ撒いて
趙内部のハイレベルな機密情報の収集ができていたようです。


韓信は、上記のような重要な情報を得たため、
本当は不安一杯だった井陘の道の通過を安心して行うことができました。


そして、
陳余のことをよく知り、陳余への恨み骨髄の張耳からは、
陳余の性格をしっかり聞き取っており、

次のような作戦計画を立てたのでした。


概要:

1.別働隊2千を間道を伝って敵の城の背後に回らせ、待機させる。

2.本隊1万を先行させて、川のほとりに陣地を築かせる。

3.自分が1万を率い、「おとり」になって、趙軍をおびき出す

4.自分の率いる1万はわざと負けて、1.の本隊の「背水の陣」に逃げ込む。
  これにより、敵軍は勢いづき、陳余の性格からして、ほぼ全軍城から出てくる

5.「背水の陣」で自軍は全く逃げ場がなく、兵は必死で戦うしかない。
  それで必死でこらえているうちに、
  1.の別働隊が、手薄になった敵城内に一気に攻め入り、
  大量の漢の旗を立てさせる。

6.敵は城に漢軍の旗が大量に立っているのに驚き、
  大軍ゆえに統制が取れなくなって混乱を来たし、壊乱するはず。


解説:

2.については、
「背水の陣」の陣地を築く前に、趙軍が攻撃しては来ないか?
という心配があるのですが、

韓信は、
「自分が出て行かない限り、趙軍は攻撃してこない。
 なぜなら、自分がいない隊を趙が先に攻撃してしまえば、
 自分が逃げてしまうことを趙が恐れるからだ。」
と読みました。

→実際その通りになり、本隊は何の妨害も受けずに「背水の陣」を築きました。


また、通常、敵陣と川の間に陣を築くのはナンセンスとされています。
「孫子」行軍篇にも

戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うること勿かれ。

とあり、

「水のほとりで、敵を迎え討ってはいけない」

というのは、当時でも常識中の常識でした。

韓信は、これを逆手に取り、
敵に自分が無能であると思わせることを狙ったのです。

→これもその通りになり、敵はすっかり勝った気分になり、そこに油断が生じました。
 それゆえ、韓信が「佯敗」つまり負けを偽装して、背水の陣に逃げ込んだとき、
 趙軍は、城を空にして一気に攻め立てようとしました。


さて、結果や如何に?

韓信の計算通り、

趙軍は、自分たちの城に漢の旗が大量に立っているのを見て、

実際には2千しかいないのに、「漢の別働隊の大軍が来ていたのか!」と勘違いし、
恐慌を来たし、指揮系統は完全に喪失して、算を乱して逃げに逃げてしまいました


その中で、
趙王も、宰相陳余も、李左車将軍も捉えられました。

趙王は漢王劉邦の元に送られ、

陳余はその場で斬首、

李左車は、韓信に「是非、私の師父になって下さい」と乞われました。


さて、ここで李左車の言った言葉もまた、現在の日本でもよく使われる成語として残っています。

敗軍の将、兵を語らず。


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