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廣宮孝信 ひろみやよしのぶ

Author:廣宮孝信 ひろみやよしのぶ
工学修士(大阪大学)、都市情報学博士(名城大学)。
2009年、著書「国債を刷れ!」で「政府のみならず民間を合わせた国全体の連結貸借対照表(国家のバランスシート)」を世に送り出した経済評論家、"国家破綻セラピスト"です。
「アイスランドは財政黒字なのに破綻!」、「日本とドイツは『破綻』後50年で世界で最も繁栄した」--財政赤字や政府債務GDP比は、国家経済の本質的問題では全くありません!
モノは有限、カネは無限。国家・国民の永続的繁栄に必要なのは、国の借金を減らすとかそんなことでは全くなく、いかにモノを確保するか。モノを確保し続けるための技術投資こそがカギ。技術立国という言葉は伊達にあるわけではなく、カネとか国の借金はそのための手段、道具、方便に過ぎません。
このように「モノを中心に考える」ことで、国の借金に対する悲観的常識を根こそぎ打ち破り、将来への希望と展望を見出すための”物流中心主義”の経済観を展開しております。”技術立国・日本”が世界を救う!
 お問い合わせは当ブログのメールフォーム(下の方にあります)やコメント欄(内緒設定もご利用ください)や、ツイッターのダイレクトメッセージをご利用ください。

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598:「徳」について――政治、経済から個人心理にまで共通する、実用的な定義を考えてみました

2014/01/03 (Fri) 16:12
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皆さま、新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


いやはや、実に4か月ぶりの更新となりました。


今回のエントリーはかなり長めになっていますが、当ブログ史上、もっとも重要なエントリーと私は個人的に位置付けております。S&P風に敢えて格付けしてみると、文句なしの「AAA」ということになります。


さて、私がブログの更新をあまりしなくなったことにはいくつかの理由があります。

ひとつは、経済に関しては私の立場(本来は経済の専門家ではない、という立場)から書くべきことは大体書き尽くしてしまったのではないか、と感じられるからです。
もう一つは、「アメリカが世界の盟主の座を降りてしまった、あるいは、降りる準備を始めてしまったのではないか、と思わせるような象徴的な出来事が、ほんの一年のあいだにあまりにも多数起きた」という意味で、昨年あたりから世界的に政治や経済の情勢があまりにも混沌としてきたように感じられるからです。

この二つの理由から、私の立場からは経済について、経済的な観点から書くだけではあまり意味がないように感じているため、何かを書くからにはもっと掘り下げた、あるいは、もっと根源的な観点から書くようでなければならない、と考えるに至った次第です。


さてさて。
そもそも4年余り前に私が経済について本を書こうと思い立ったのは、「国の借金」問題が日本国にとって、あるいは、世界全体にとって致命的な問題と感じたからでした。
マクロ経済を会計的な発想で考えると、これは個人、企業、政府などのすべての経済主体の連結決算じゃないか、ということに思い至り、自分が専門家でなくとも、この考えに基づいた国の借金についての考え方を、世の中に向けて発表し、共有すべきだと考えました。
そして最近ではこの「マクロ経済=すべての経済主体の連結決算」論はほかの多くの皆さんが盛んに書いています。だから私がこれ以上ああだこうだ書く必要性は薄れつつあります。

そして、もう一つ重要なのは、残念なことに、「マクロ経済=すべての経済主体の連結決算」論が盛んにあちらこちらで述べられているにも関わらず、世の中全体ではまったく主流になっていないという現実です。つい最近のNHKの世論調査でも8割以上の人々が国の借金が問題だと考えている、というような結果が出ていました(と、記憶しております)。

そのようなわけで、私は、こういった問題に取り組むには、人間が生物学的に持っている性質を掘り下げて知る必要があるのではないかと考えるに至りました。
何せ、経済も政治も、つまるところは人間の集合体の行動の合計体であるわけですから。その人間の生物学的に備える性質について知るために役に立ちそうだと私に思えるのが、主として心理学や脳科学(神経科学)や生理学といったところです。

そういったわけで、現在の私の興味は主として心理学に向かっている次第です。もちろん私はあくまでも非専門家ですが、非専門家だからこそできることが確実にあると考えています。経済に関してもそうであったように。

では、そろそろ今回の本題に入って行きたいと思います。

今回は
・「徳」とは何か?
・「徳を積む」とはどういうことか?

という二点について述べて行きたいと思います。また、私なりの「徳」の定義に沿って考えると、個人における基本原理が、政治やマクロ経済にも完全にぴたりと当てはまるようになる、というところまで論じたいと思います。



「徳」とは何か?

漢和辞典(角川『漢和中辞典』)によれば、徳の原義は「のぼる」であり、古代には、「神を知る能力」、「力」という意味であったとのことです。

では、「神を知る能力」とはなんぞや?ということになりますが、考えてみましょう。

人間が最も幸福を感じる心理状態、あるいは、能力を発揮しやすそうな状態はというと例えば、心が完全に調和の取れた状態、均衡した状態、秩序ある状態ではないかと思われます。
生理学的に考えると、精神が安定し、交感神経と副交感神経のバランスが取れており、理性が最も働きやすく、感情も安定し、免疫力までもが最も高まる状態、といった具合です。これが「神に通じる心理状態」=「神を知る能力」=「徳」と考えてみるのも良いのではないでしょうか。

というわけで、
「徳」=「調和、均衡、秩序ある状態」
と定義してみます。

ある人の精神状態が「調和、均衡、秩序ある状態」であれば、悪心を起こしたり、犯罪に走ったりすることもないものと考えられますから、やはりこれは「徳」というイメージとかなり一致するように思われます。

さてここで、「徳」について、もっと掘り下げて考える材料として、『老子』の第二十八章を引用します。
また、ついでに先に言っておくと、これをのちほどユング心理学風に解釈することを試みます。というのも、ユングは思いっきり老子の影響を受けた心理学者だからです。ちなみに、ユングのシンクロニシティー(=意義深い偶然)は老子の「道 タオ」を翻訳して心理学用語としたものです。

なお、老子の引用(読み下し文)自体は難解ですのでこれは読み飛ばし、そのあとの訳文からお読み頂いたほうが良いかもしれません。


『老子』第二十八章

[読み下し文]
その雄(ゆう)を知り、その雌(し)を守れば、天下の谿(けい)と為る。
天下の谿と為れば、常の徳は離れず、嬰児に復帰す。
その白を知り、その黒を守れば、天下の式(のり)と為る。
天下の式(のり)と為れば、常の徳は忒(たが)わず、無極に復帰す。
その栄を知り、その辱(じょく)を守れば、天下の谷と為る。
天下の谷と為れば、常の徳は乃(すなわ)ち足り、樸(はく)に復帰す。
樸散ずれば則(すなわ)ち器と為る。聖人これを用いるときは、則ち官の長と為す。
故(まこと)に「大なる制は割(そこな)わず」。

[訳文]
雄(かた)さの力を知りつつ、雌(よわ)さのままにとどまるものは、天下の何ものをも受け入れる谿(たにま)のようなものとなる。
天下の谿であれば、変わることのない「徳」はその人を離れることがない。そして嬰児(あかご)の状態にもう一度かえれるであろう。
白の輝かしさを知りつつ、黒の知られないままにとどまるものは、天下のすべてのものの模範となる。
天下の模範であれば、変わることのない「徳」は何のまちがいも起こさないであろう。その人は「極(きわ)み無きもの」にもう一度帰れるであろう。
栄誉のとうとさを知りつつ、汚辱にとどまるものは、天下の谷(おおかわ)のようなものとなる。天下の谷であれば、変わることのない「徳」は満ち足りて、その人はまだ削られる前の樸(あらき)の状態にもう一度帰れるであろう。樸がばらばらにされると、さまざまの器となる。聖人がそれらを使って、官吏たちの長とする。まことに「偉大な制(切り手)は肉をそこなうことはしないのだ」

(以上、中公クラシックス『老子』小川環樹訳 より)


上記の老子の文章を図解すると、以下のようになります:




ここで、
「谿」や「谷」は、「水が集まってできる川」です。
「天下の谷」となると、「この世のすべてを収納することのできる容器」ということになります。

また、
雄と雌
白と黒
栄と辱
はすべて、陽と陰、+と-、互いに正反対の性質のものです。

そして、「知る」、「守る」には漢和辞典を引けば、両方とも「治める」という意味があります。
よって、
「その雄を知り、その雌を守れば」
「その白を知り、その黒を守れば」
「その栄を知り、その辱を守れば」
というのは、陽なるものと陰なるもの、対極にある互いに正反対のものを両方ともうまく治めることができれば、という意味になります。

そして、そのような人は天下のすべてを収納することのできる巨大な器(うつわ)になれるし、そのようなことができた人は、徳を保つことができる、という意味に解釈することができます。

また、そのような巨大な器の持ち主となれば、「嬰児、無極、樸」になれる、ということになります。
ここで、
嬰児=赤ん坊。
無極=極みがない、つまり、際限がないということ。無限。転じて、宇宙の根源の意味も(小学館『デジタル大辞泉』)。
樸(はく)=切り出したままの、加工する前の木材。
ですが、要するに、「完全に偏りのない、バランスの取れた、柔軟性の極めて高い状態。 かつ、潜在力が最も高い状態」の象徴と解釈できます。

そいうわけで、老子のいう「徳」は、「徳とは完全にバランスの取れた状態で、“神を知る能力”の状態」、という先ほどの「徳」の字義から私が導き出してみた定義に一致することになります。

ここでさらにユング心理学風に解釈を掘り下げてみましょう。

雄と雌
男性的なもの(陽)と女性的なもの(陰)。
ユング風に言えば、一人の人間には、男性であっても内部に女性的な性質が存在するし、女性であっても内部に男性的な性質が存在します。
例えば、論理的思考は男性的性質、感情は女性的性質、というような分類をしてみても良いでしょう。
また、意識を男性的なもの(陽)、それに対して無意識(いわゆる潜在意識。一般的に、心理学用語として潜在意識という言葉はあまり使われないので、ここでは無意識を用います)を女性的なもの(陰)と解釈しても良いでしょう。
古来、洋の東西を問わず、太陽や昼、つまり「陽」は男性の象徴とされ、月や夜、つまり「陰」は女性の象徴とされることがしばしばです。
さらにいうと、ユングの定義では、意識の否定形が無意識となります。人間が自分で意識できる心的領域が意識であり、それ以外のすべての心的領域(=意識できない残りのすべての領域)が無意識です。
よって、
「その雄を知り、その雌を守れば、天下の谿(けい)と為る」
とは、例えば、
「意識領域を巧みに治め、かつ、無意識領域をも巧みに治めることができるような人は、この世のすべてを収納できるほどの器(うつわ)の持ち主となる」
というように解釈できます。(こう解釈すると老子のこの言葉は、ユングが言うところの「個性化」や「自己実現」を意味しているように思われます。)
※ユングについてもう少し詳しく知りたい、という方は、とりあえず一冊読むとしたら『ユング 分析心理学』小川捷之訳 をお勧め致します

白と黒
これも雄と雌のペアと基本的に同じですが、例えば、白を善の象徴、黒を悪の象徴と考えてみましょう。自分自身の内部にある善と悪を両方ともうまく治める、という具合です。
さて、ここでいわゆる性善説、性悪説という考え方について検討してみましょう。
性善説は人間は本来、善の性質が備わっている、という立場です。もし誰かが悪人になるのは、それは単に何か間違ったからだ、という感じになりますね。
一方、性悪説は人間は本来、悪の性質が備わっているので、何の努力もしなければ、人間は自然と悪人になるという立場ですね。
読者の皆さんは、性善説と性悪説、どちらが正しいとお考えでしょうか?
私は、両方とも正しいと考えます。
恐らく、老子もそう考えていたのではないかと推察されます。
それゆえに老子は、
「その白を知り、その黒を守れば、天下の式(のり。模範)と為る」
と言っているのでしょう。
善も、悪も、一人ひとりのすべての人間に、両方とも本来、生物学的性質として備わっているが、両方ともうまくコントロールできるようになれば、そのような人は天下の模範となれるのじゃよ、ということではなかろうかと。

栄と辱
栄誉と汚辱。つまり、愛とか感謝とかの肯定的感情(positive feelings)と、怒り、妬み、恐れなどの否定的感情(negative feelings)です。
この両方ともを、うまく心の中の支配秩序に組み込むことができれば、「天下の谷」となることができ、徳は充足するのじゃよ、ということなのでしょう。
そうすると「樸(はく)」、つまり、加工前の木材のような偏りのない、潜在的可能性が最大化するような状態になれる。
そして、これを「散ずる」(バラバラにする)と「器」となる。徳の高い聖人はどんな人物をも徳のある状態(=樸)にして才能を引き出し、適材適所に配して天下を巧みに治めることができる、といったところでしょうか。

ところで、フロイトやユングの心理学の最大の特徴と私が思うのは、一人の人間の心の中には様々な勢力や派閥がいて、群雄割拠の状態になっているということを前提にしている点です。

フロイトが次のような例を挙げています。
あるとき、国会(恐らくオーストリアの国会)の議長が議会の開会を宣言しようとしていたのに、うっかり「それでは、閉会します」と言ってしまったことがあったそうです。
フロイトによると、この議長はどうせ議会を開いても荒れてまともな議論などできないということが分かっていたために、このようなうっかりした行為=失錯行為(しっさくこうい)が起こったとのこと。
この失錯行為の起こる仕組みというのは、ある人の心の中で二つの相反する意向が衝突するから、ということになります。
上の例の場合、議長の意識では「開会を宣言しないといけない」という意向が当然のように働いていたわけですが、無意識では「こんな状態で議会を開会したくないよ」という意向も働いていたわけです。
そして、うっかり「閉会します」と言ってしまったということは、「こんな状態で議会を開会したくないよ」という無意識の中にあった意向が、ほんの一瞬とはいえ、開会を宣言しないといけない」という意向に競り勝ってしまった、というわけです。

こんな群雄割拠状態の心の中を、うまく統治することができれば、徳が保全されるのだよ、というのが老子の言葉の本質なのではなかろうかと、私は考える次第です。


「徳を積む」とは?

さてここで、この老子の言葉を活用する方法を一つ、考えてみたいと思います。だいぶ上のほうになってしまったので、もう一度図解を示しておきます。




上の老子の言葉の意味をもう一度かいつまんでいうと「互いに両極端、正反対の性質のものを、両方ともうまく治めれば、徳の充足した状態になれる」という具合になります。

さて、この考え方に沿って、「死ぬほど嫌いな人に対する激しい怒りの感情を、中和して鎮静化させる方法」を検討してみましょう。

自分が心底から忌み嫌う人が持っている性質というものは、例えば、自分とは完全に正反対の性質と言えます。
「こいつがなんでこんなことをするのか、まったく理解できん!」という具合になりますが、ということはつまり、相手の人が、自分の理解できる領域から完全に外れたところに存在している、と認識していることになります。
つまりは、その人は自分とは対極にある、正反対の性質の持ち主であると認識していることになります。

さて、ここで自分自身の中にもその正反対の性質が存在すると敢えて仮定します。一人の人間の中に、
雄と雌
白と黒
栄と辱
といった、互いに両極端、正反対の性質のものが確かに存在しているのであれば、自分自身が意識している自分自身の性質と正反対の性質のものが、いまだ意識されていない自分自身の無意識の中に存在していても、実はなんらの不思議もありません。

まあ、極端な話、仮にあなたがその「くそったれ」と同じ親から生まれ、同じ環境で育ち、同じ食べ物と飲み物を摂取してきていたとしたら、あなたも生物学的見地からすると、その「くそったれ」とまったく同じ性質を持つようになることは十分にあり得ることです。

いや、要するに、一応は同じ人間、ホモサピエンスという生物種であるからには、同じ性質を持つに至る可能性は、完全なゼロではなく、0.000000001%くらいはあるはず、ということになります。

ちょっと長くなったので、まとめなおしてみます。
あなたが死ぬほど頭に来ている、心底から忌み嫌っている人が持っているような、自分とは正反対の性質が、自分自身の中にも存在すると敢えて仮定してみましょう。
そのような性質が自分の中にも存在する(可能性がある)ことを肯定し、うまく「知り、守る=治める」ことができれば、あなたは「天下の谷=この世の全てを収納できるほどの巨大な器」となり、つまり、徳を高めることになると言えます。
これはいわば、心の内なる戦国乱世に泰平の治世をもたらした徳、ということになります。

ここで、その存在を肯定する、というのは、なにも積極的に仲良くどっぷり付き合わなければならない、ということではありません。
ほどよく距離を保ち、暴発しないように適当にあしらっておく、ということもまた「肯定」です。これが、「知る、守る=治める」です。

例えば、徳川家康は、関ヶ原の合戦で敵対した島津家に降伏を迫りましたが、島津家の当主は薩摩に引きこもったまま家康の要請を完全に無視しました。
家康としては、討伐して島津家を征服したいところですが、何せ中央から遠く離れた薩摩に遠征し、精強をもって鳴る島津相手の合戦に手間取ると、せっかく静まった天下の情勢が再び大いに乱れてしまいかねません。
そうなってしまっては元も子もありませんので、結局、家康は所領を安堵(あんど)する旨を島津家に送り、それで何とかうまいこと島津家を自らの支配秩序の中に組み込んだわけです。
心の中の厄介な存在を扱うときも、こんな感じで扱うことは一つの効果的な方法となり得るでしょう。
「存在すること自体は肯定し、認める。そして、ほどよく距離を置き、適当にあしらう」
というやり方です。

ここまで、もう一度だけ短く整理しておきます。
・自分が心底から忌み嫌う人物がいるとする。
・その人の持つ性質とは、自分という存在にとって完全に対極にある、正反対の性質である、と考えてみる。
・そのような「自分とは正反対の性質」もまた、自分が意識できていないだけで、自分の無意識の中に存在する(かも知れない)と仮定する。
・それが存在することを肯定し、認め、とりあえずその存在のための所領を安堵してやることでうまく「治め」ると、それは個人レベルでのいわゆる一つの「徳を積む」ということになる。

ここで注意事項ですが、その存在を否定すると、往々にして厄介なことが起きます。
その存在を否定するということは、つまり、その対象を抑圧していることになり、たいていの場合、暴れ出すことになります。

最近のニュースでも某国で某少数民族が抑圧されて暴発し、テロ事件が頻発していることが伝えられていますが、我々の心の中で群雄割拠しているさまざまな性質、さまざまな存在も、その存在自体を否定されると、「抑圧された」と感じ、あなたに対していわば「テロ行為」を繰り返すことになり得るわけです。

なお、このような心の中で暴れているような存在を特定し、なだめてやることで精神の平衡を取り戻す、ということが、フロイトの精神分析学やユングの分析心理学の目的とするところのものであります(と、私は解釈しております)。
そして、このような心理学は、いわゆる精神病患者の人たちだけでなく、大多数の健常者の日常生活においても極めて有用であると思われます。
上記のような老子的な定義の「徳を積む」ということを標榜するのであれば、フロイトやユングの心理学はなおさら有用であると言えるでしょう。


個人心理学の視点を用いて政治を考えてみる

どんな人の場合でも、一人の人間の心の中は、いわば荒れ狂う国会の議場のようなものです。
与党もいれば野党もいて、いろいろな会派、派閥がいます。一人の人間の中には、自民党もいれば、共産党もいるわけです。
このような、互いに正反対の相反する勢力が存在する状態において利害を調整し、うまく治めるのが政治、といえます。
心の内なる議会において「政治」を行うにあたっては、心理学を活用することが可能であり、『老子』や『論語』あるいは『孫子』のような古典もまた、活用が可能と言えます。

ここまで、『老子』を個人心理学的(あるいは個人心理学風)に解釈し、あるいは、現実世界における政治の話の事例(島津家に対する徳川家の対処法や、某国政府の抑圧に対する反政府活動の話)を用いて個人心理学を考える、というようなことを書いてきました。
さて、今度は逆に、ここまで書いてきた個人心理学(=内なる精神世界における政治)の話を、現実世界の政治を考えるために活用することを、試してみましょう。

例えば、先ほどの某国政府の抑圧に対する少数民族の反政府活動について考えるなら、本来的には、当事者が互いに、両方の立場とも正しいという前提に立つことから始めるのが望ましいでしょう。
つまり、先ほどの老子的な発想、「心の内における正反対のものを両方ともうまく治める人は、天下の谷となる」という発想の応用です。
そして、両方の立場とも正しいという前提に立った上で、双方がなんとか納得できる妥協点を、創意工夫によって見いだし、和解するというプロセスをたどるのが理想的と言えるのではないでしょうか。
残念ながら私はこの問題について詳細を知らないわけですので、このような抽象論で留めておきたいと思いますが、恐らく、現状は双方とも「両方の立場とも正しいという前提に立つ」という段階にはまったく至っていないのではなかろうかと思います。
「いや、そんなことは理想論に過ぎない。現段階では現実的には、彼らは互いに相手を攻撃するほかに手段がないのではなかろうか」、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。
それに対して私は、理想を追い求めることも、現実的に対処することも両方とも正しい、と考えてみたいと思います。
現状では互いに、抑圧を強化し、あるいは、武装攻撃するほかないというのが現実であるとしても、双方とも「やがては平和な状態を実現したい」という理想を、少なくとも心の中では諦めずに持っておくことが望ましいと言えるでしょう。

これは原発問題についても言えのではないかと思います。
どちらかというと「現実的」といえる推進派と、どちらかというと「理想的」といえる廃絶派は両方正しい、という前提に立ってみると、「原発ゼロにしてもエネルギー源が確実に確保できるという科学的根拠が確立されれば、原発は廃止すべきです。しかしそれまでは原発はベース電源として位置付けて維持すべきなのです」というような趣旨の、安倍総理によるテレビでの発言が最近あったのですが、これは現実と理想が両方とも正しいという前提に立った、一つの望ましい方針であると言えるかも知れません。もちろん、もっと良い方向性というものが、ほかにあるかも知れませんが。

また、私が当ブログや著書でしつこいくらい繰り返し書いている「第三の道」の政治手法も、このような発想法が取り入れられていると言えます。
というのは、「第三の道」は資本主義と社会主義という互いに正反対の政治・経済思想を、両方とも正しいという前提に立って考案された手法であるからです。
ただし、「第三の道」的な政策だからといって絶対にうまく行くとは当然、限りません。理想や理念が好ましいものであったとしても、現実にうまく対処するためには、試行錯誤と創意工夫が不可欠となるでしょう。また、どんなにうまくいっていた政策があったとしても、状況・環境の変化とともに陳腐化して物の役に立たなくなってしまうということは、いつでもあり得ることです。
「理想を追求することを志向しつつ、創意工夫を重ねて現実に起きている矛盾を解決してゆく」ということこそ、政治であれ何であれ、実はこれが「徳を積む」ということなのだと私は考えます。
別の言い方をすると「互いに反発し、矛盾し、対立するもの同士を、創意工夫を凝らして、調和的な形で結び付け、新しい価値を生み出すこと」ともいえそうです。


「国の借金」問題にフロイト風の精神分析を持ち込む試み

私はあくまでも心理学の専門家ではないので、「フロイト流」ではなく「フロイト風」としておきます。
「国の借金」について、
「国の借金は実際のところ経済の根本的問題ではないし、特に、日本の国の借金は、少なくとも現在のところはまったく問題ないのですよ」
ということを、より幅広い層に納得してもらうための方法を考えるために、ここで「国の借金」について、フロイト風の精神分析を試みたいと思います。

※「国の借金」という場合の「国」とは、中央政府のことです。「国会」とか「国政」とかの「国」が中央政府を指すのと同様です。よって「国の借金(=中央政府の債務)」という言い方自体に何かしらの問題があるとは思われません。このことは、これまで当ブログで何度か書いてきましたが、念のため繰り返しておきます。

「フロイト風」といいつつ、ここではまず下準備としてユングのコンプレックスの概念を簡単に説明します(ちなみに、フロイトはユングと決別した後の1916年に行った講演において、このコンプレックスというユングが有名にした用語を普通に使っていますし、ユングの研究事例も普通に引用していたりします。念のため)。

コンプレックスというのは、日本語では一般的に劣等感を指す言葉になってしまっていますが、本来的には「一つの感情で関連付けられている一連の心的内容物」という意味になります。

で、結局これ、何やねん、というと、例えば、次のような事例。
女性が怒ったとき、論理的には何らの関係のない過去の出来事を次から次へと思い出して、「あのときこんなことした、このときこんなことした」というようになることを目撃した、あるいは、自分がそんなことをした、ということはないでしょうか?
もちろん、このような現象は男性でもあるかも知れませんが、これこそまさにコンプレックスのなせる技です。論理的に何らの関連性がなくとも、感情的には密接に関係している一連の記憶が、「怒り」とか「悲しみ」の感情が発現したことをきっかけに、芋づる式に思い出された、というわけです。

これは、脳科学でいうところの「連合学習」の仕組みが関与していると考えられます。
連合学習とは、互いに関連のある内容を関連付けて記憶する、脳の記憶のシステムですが、これが感情によってラベル付されているわけです。つまりユングやフロイトが言うところのコンプレックスとは、相互に関連付けられて形成されている記憶の脳神経回路群とでもいうべきものなわけです。
(脳科学に関しては、『感じる脳』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 参照)

このコンプレックスの構造を解析するのが、フロイトの精神分析ということになります。
フロイトは、上記のようなコンプレックス、あるいは、連合学習のシステムを活用するために(フロイトの時代には脳科学の「連合学習」という概念は知られていなかったと思われますが)、患者に連想ゲームを次々に展開させるようなことをしました。
例えば、何かしら精神的葛藤を抱えている患者に、前の日に見た夢について語ってもらい、その中で「これ」と思えるような事柄に関して、「それについて、すぐにぱっと思いつくことを言ってみて下さい」と聞きます。
患者がそれで何かを連想してぱっと思いついたことを語ると、さらに「それに関して、ぱっと思いつくことは何ですか?」と聞くわけです。
このようにして、どんどん連想を展開してゆき、最終的に患者が意識できていなかった、心の中の問題箇所を探り当てることによって、精神の平衡を取り戻す、というようなやりかたです。
まあ、かなり簡単に書いてしまいましたが、このように「自由に連想させる」ので、フロイトはこれを「自由連想法」と名づけました。

というわけで「国の借金」についても、この「自由連想法」による分析を応用してみるのが良いのではないかと思うわけです。
というのは、論理的に説明しても納得してもらいにくいのなら、感情的に納得してもらうというアプローチが必要であると考えられるからです。

もちろん、まずは、さきほどの老子的なアプローチも重要と考えます。つまり、「国の借金大丈夫だ派」も「国の借金もうダメだ派」も両方とも正しい、という立場に立つことが大前提となります。


「国の借金コンプレックス」の解析

で、次に、フロイト風の分析ですが、まあ、要するに「国の借金もうダメだ派」の皆さんに以下のような質問をしてみるわけです(なお、一般のプロフェッショナルでない人に聞くほうが良いかも知れないですね)。

「『国の借金』と聞いて、ぱっと思いつくのはどういったことですか?キーワードでもイメージでも何でもいいので、ぱっと思いつくものを教えて下さい」

すると、こんな答えが返ってくるかも知れません:

「1000兆円」
「返済不能」
「借金地獄」
「生き地獄」
「雪だるま式に借金が増える」
「夜逃げ」
「一家離散」
「破綻」

つづいて、もし「破綻」という言葉が返ってきたとしたら、こう聞いてみるのも良いかも知れません:

「『破綻』というと、どういったことでしょうか?ぱっと思いつくままに教えて頂けますか?」

で、以下、例えばこんな感じ:

「いや、なんか国が借金で首が回らなくなって大変なことになる、ってことかな」

「国が借金で首が回らなくなって大変なことになる、というと例えばどういったイメージでしょうか?」

「いや、何かワシら自身も一家離散になったり、生活が破綻したりとか、そんなイメージかな?」

「なるほど。うーん、では、もし仮に、日本政府が借金で首が回らなくなって破綻したとしてもですね、仮に、自衛隊や警察や消防や海保が食べ物とか電力とかガソリンとか生活に必要な物資を確保して、ちゃんとあなたの家までクロネコヤマトの宅急便かなんかで送ってくれるとしたらどうでしょう?つまり、政府が破綻しても、あなたの生活が破綻しないとしたら、どうでしょう?」

「ほえ?政府が破綻しても我が家は破綻しないって、そんなアホなことあるんかいな?夕張とか大変やったんとちゃうの。」

「確かに、夕張は大変だったようですね。では仮に夕張のように破綻したとしましょう。そのときに、仮に、ですよ。仮に、政府がうまいこと戦時中のような配給制度を作れたとして、それで、あなたと家族の最低限度の生活がしっかり保障されるとしたらどうでしょう?」

「ははあ、配給ねえ。そういうことやったらもしかしたら何とかなるかもなあ…。でも、そんなんほんまに出来るんかいな?」

「ご心配はごもっともです。そこでですね、もし、政府が財政破綻する前に、一所懸命に投資して、食糧自給率とエネルギー自給率を100%にできたとしたらどうでしょう?」

「そりゃ、もしそんなことが出来たとしたら、何とかなりそうかもなあ…」

「ちなみに、“国の借金”と“関東大震災なみの巨大地震”だったら、どっちが怖いですか?」

「うーん、やっぱ“巨大地震”のほうが怖そうかな?」

…とまあ、こんな感じで、その人物が「国の借金」に対して、具体的にどのような恐怖や不安を抱いているかを連想ゲーム的に聞くことで分析し、気持ちを十分にくみ取った上で、押しつけがましくせず、できるだけ丁寧に、ソフトタッチにやってみる、という感じです。
そして、最終的に「日本は外貨建てで借金してないので、いざというときは日銀がバンバンカネを刷りまくれば大丈夫。問題はインフレだけ。いまの日本は世界屈指のデフレ状態。国の借金なんかよりも、モノが足りているかどうかのほうがすっと重要。日本は、デフレのうちにモノが足り続けるような投資をすれば、将来も安泰。云々」ということを納得してもらう。
というようなことが、穏当にして妥当なアプローチということになるのではないかと考える次第です。

つまり、まず大前提として「国の借金は大丈夫だ派」と「もうダメだ派」は両方とも正しい、という立場に立ち、次に「国の借金」に対する恐怖や不安に関係する一連の心的内容物、すなわち「国の借金コンプレックス」の解析をしたうえで、丁寧に対処しましょう、というご提案であります。
これが私なりの「国の借金」問題に関して「徳を積む」方法の具体例の一つです。


フロイトの精神分析における「ダジャレ」の重要性

ところで、若干脇道にそれますが、フロイトの「自由連想法」に関連して、ダジャレがいかに重要か、について。

そもそもからして、自由連想法はいわば感情的なダジャレの活用法ですが、フロイトの精神分析では様々なダジャレが活用されます。

例えば夢の中で何かしらキーワードになるような単語が出て来たとして、実はその単語と似た音の別の単語に深い意味があった、などということがあり得るわけです。

あるいは別の形のダジャレとしては、夢の中で相互に何の脈絡もない、合計で三つの「馬鹿げた出来事」のストーリーが展開されたとします。実はその人が本当に馬鹿げていると感じていたのは、自らの結婚生活のことだった、というようなちょっと入り組んだものもあり得ます。
もちろんその本人は自分の結婚生活が馬鹿げているというのは意識的には思っていなかったし、そんなことは思うべきですらないと考えていたので、それで夢のほうでは意識による検閲を避けるために、そんな回りくどいことをしていたわけです。

まあ、詳しくはフロイトの「精神分析学入門(上) 井村恒郎+馬場謙一訳」をお読み頂ければと思いますが、その本の中で、フロイトは「創造というのは、何か新たなものを作ることではなくて、一見して相互にまったく関連の無さそうな、実はすでに存在しているものをいくつかくっつけただけに過ぎない」というような趣旨のことを書いています。
大抵の発明はこのようにして生まれるのかも知れません。

私の「国全体の連結バランスシート」の発想も、すでに存在していた「企業の連結決算」の考え方をマクロ経済に転用したに過ぎません。そして、これも言ってみれば自由連想法的なダジャレの一種です。

相互にまったく関係なさそうなものをくっつけて新しい何かを生み出す、というような、ダジャレ的なものを活用して問題を解決に導くというようなことは、日常生活でもよく見受けられることではないかと思います。

おやじギャグを連発するだけで、ほかにはまったく大した才能が無い、と思われているような人がいたとしても、その人の中には、実は隠された偉大なる創造的才能が眠っているかも知れません。

個人心理学の考え方を政治やマクロ経済を考えるために応用したり、逆に、政治やマクロ経済の考え方を個人心理学に応用したり、という試みを行うことも、これもまたダジャレの一つと言えます。私の個人的感覚では、このような形で心理学と政治・経済について取り組むことこそ、まさにほかならぬ「天下の谷」に至るための最大の幹線道路です。


「徳」について、たった六文字でまとめてみる

では、もう一度本題の「徳」の定義と、「徳を積む」の定義の話に戻ります。これまで、かなり長~い説明をしてきたので、物凄くコンパクトにまとめてみたいと思います。ただ、短すぎるので、結局、それなりの分量の説明が必要なのですが!

まず、孔子の発言録である『論語』に次のような言葉があります。

「徳は孤(こ)ならず」(原文は「徳、不孤」)

徳のある者は、孤立することはない、必ず良い仲間がいる。というような意味合いです。

ここで、「孤(こ)」という文字ですが、漢和辞典によると、原義は「少ない。寡(か。“衆寡敵せず”の寡。これも少ない、という意味)。」です。

また、昔の中国の君主は自らを指す一人称として「孤(こ)」や「寡(か)」、「寡人(かじん)」という言い方を用いていました。これは自らを謙遜する言い方です。
「孤」や「寡」は「少ない」という意味ですが、何が少ないのかというと、つまりは、徳が少ない、ということでしょう。自らを「不徳の人」と称することで、古代の君主たちは謙遜していたわけです。

といったことを踏まえると、「孤(こ)」を「徳」の否定形、反義語として定義しても良いでしょう。
そうなると、だいぶ前のほうで書きましたように、徳を「調和、均衡、秩序のある状態」とするならば、孤はその正反対、「不調和、不均衡、無秩序の状態」を意味するものと解釈できます。

孤立、孤独、疎外感といったものは、不調和、不均衡、無秩序と大いに関係があると言えます。というのは孤立、孤独、疎外感に陥っている人がいるとしたら、その人の精神状態は、不調和、不均衡、無秩序に陥っているということが、十分にあり得ることだからです。

でも、「極めて攻撃的」という意味で「不調和」な精神の持ち主の人たちが徒党を組んで、犯罪集団やテロ集団を形成していたら、その人たちは仲間がいるので孤独とは言えないのではないか、ということになります。しかし、その集団は社会全体からすれば孤立していると言えるかも知れません。

もちろん、そんな集団が大義の旗印を掲げ、徳を積むことを志向することで、いつしか大衆の絶大なる支持を集め、正式な政府にとって代わるようなことは、もちろんあり得ることです(世界各地で歴史上、そのようなことは実際に何度も起きています)。
しかし、その場合はまさに文字通り「徳は孤ならず(徳不孤)」を体現したことになるでしょう。

というわけで、徳の反義語として、徳の否定形を意味する文字として「孤」を設定したいと思います。
そして、さらには「徳は孤ならず(徳不孤)」の対となる言葉を考えてみたのですが、私は次のような言葉を考案してみました:

「孤は徳を益(ま)す」 (→「孤、益徳」)

「益」は「利益」の「益」ですが、この「益」の字は「皿の上に水があふれている形」の象形であり、増える、増すという意味です。

というわけで、
「孤は徳を益(ま)す」 (→孤益徳)
という言葉には「何らかの不測の事態によって、精神が調和から不調和に陥いり、“孤”の状態になったときこそ、そこで不調和に再び調和をもたらすことように創意工夫をすることで、徳を益す(増す)ことができる」という意味を込めました。

『三国志』に出て来る猛将、張飛は、親の付けてくれた名(諱 いみな)にの「飛」に対応して、「益徳」という字(あざな)を名乗りました。

彼は、徳を益す(増す)ことで、飛躍するのだ、という意気込みを表したのでしょう。
(ただ、張飛は徳を減らすことで、非業な最期を遂げる羽目になったと言えますが…)

ちなみに、張飛が仕えた劉備は、親の付けてくれた「備 そなえる」という諱(いみな)に対して、「玄徳」という字(あざな)を名乗りました。
字(あざな)は通常、二十歳のときに自分でつけます。玄徳、すなわち、他人が外からは見えないような心の深いところに備える徳、と名乗った劉備は、かなり若いころから天下を志していたのでしょう。
ほとんど流浪の身から三国のうちの一国の皇帝にまで登りつめた彼の字(あざな)は、「玄徳を備えて、成り上がろう」というような、野心満々の名付けであったと解釈できます。

というわけで、「徳」と「徳を積む」に関して六文字でまとめると

「徳は孤(こ)ならず」 (→「徳、不孤」)
「孤は徳を益(ま)す」 (→「孤、益徳」)

徳、不孤。
孤、益徳。

となります。
さて、これを図解すると以下のようになります。





上図において、「徳」はいわば通常の状態であり、「孤」は異常な状態あるいは非常事態です。
何らかのきっかけで「徳」(調和、均衡、秩序)の状態から「孤」(不調和、不均衡、無秩序)の状態に陥ったときこそ、「徳」を磨く絶好の機会であり、そこで「孤」から「徳」の状態に復帰させることができれば、「徳を益す(増す)」、つまりは、徳を積むことになります。
この繰り返しにより、生涯「徳を積む」、「徳を益す(増す)」ということを続ける、つまりは、徳を積み続け、成長し続けることを目指すのが人生ではなかろうか、と思う次第です。


「孤」の精神状態に陥ったときに、「徳」に戻す、つまり「徳を益す(増す)」ための具体的な方法のとしては、次のようなことが考えられます。

「孤」の状態、つまり、不均衡、不調和、無秩序の状態に陥っているということは、必ず、心の中で葛藤が生じていることになります。つまりは、あなたの中で、あなたに謀反を起こしている派閥が存在しているわけです。
この派閥の存在を確認し、その存在を肯定し、所領を安堵してやることで、なんとか手なずけてしまう、というのが一つの効果的なアプローチとなるでしょう。

もっと単純な方法を一つ挙げておくと、いま自分自身が「孤」の状態に陥っているかどうか、自分で質問してみることです。
「あれ?いまワシ、どんな状態?あ、ひょっとして『孤』の状態か?…あら、かなりやばいくらい『孤』かな??いや、そうやな。たしかに『孤』みたいやな」
というように自問自答するわけです。
これは先ほどのフロイト風の精神分析の最も単純な形での応用法と言えます。
要するに自分に向けて質問することで、客観的立場の自分を呼び起こしつつ、自由連想法的な問答を一つか二つくらい展開してみる、というわけです。
『孤』の状態に陥っていることを、客観的に確認し、そうなっている部分が自分の中に存在していることを肯定し、所領を安堵してやることで、少しでも手早く冷静さを取り戻そうという試みです。

さて、注意事項としては、この心の中の「反乱勢力」は存在を否定され、抑圧されればされるほど、より一層暴れる可能性が極めて高いということです。

また、この「徳を益す(増す)」ための具体的な方法に関しては、先ほど〔「徳を積む」とは?〕の項で述べました「死ぬほど嫌いな人に対する激しい怒りの感情を、中和して鎮静化させる方法」も、ご参照ください。

なお、以上で挙げた方法は、私なりに検討してきたことを例示しているに過ぎません。心理学の良さは、自分自身を実験台にしていろいろと試すことで、自分なりの研究開発を独自に行えるところにあります。


それはそれとして、上の図はまた、一国、あるいは、世界全体の経済の成長過程にも当てはまります。
その図がかなり上の方に行ってしまったので、もう一度掲載しておきます:




例えば、第二次世界大戦で「孤」の状態に陥った日本は、その後、まがりなりにも「益徳」に成功し、一気に飛躍しました。


はて、そうすると…、今の日本はどうでしょうか?
「孤」の状態でしょうか?
「徳」の状態でしょうか?
この場では私は、敢えてどちらであるとも言わずにおきたいと思います。

それから、上の図は、名城大学の木下栄蔵教授の「通常経済、恐慌経済」の理論ともぴったり整合します。
まず、「徳」が「通常経済」です。
このとき、民間経済は「調和、均衡、秩序」の状態なので、政府はほとんど何もしなくて良い状態です(やるべきは基本的に金融調節のみ)。
一方、「孤」が「恐慌経済」です。
ただ、「孤」は「不調和、不均衡、無秩序」ですから、「恐慌経済」に陥る直前の異常なバブル経済をも「孤」に含めれば良いでしょう。「孤」の状態では、政府は積極的に民間経済に干渉すべき、ということになります。ただし、あくまでも「益徳」となるように、次の成長につながるようなインフラ整備など、できるだけ有意義な投資を行うという創意工夫が必要と言えます。
 この「創意工夫」こそが「益徳」です。

経済や政治に関してもう一つだけ例を挙げると、経済格差が過剰に大きくなっているのが、まさに「孤」(不調和、不均衡、無秩序)であり、格差が適正範囲内である状態が「徳」(調和、均衡、秩序)です。
なお、格差がまったく無いとか、必要以上に小さ過ぎるというのも好ましい状態ではないものと思われます。この状態においても、何だかんだと言って、やはりどこかで不満を募らせる勢力が現れるだろうし、また、最低限必要な競争心が消失することで技術革新も完全に停滞してしまうため、世の中が不安定化するように思われます。そういうわけで、もう一度整理しなおしましょう。
「徳」:経済格差が適正範囲内-治安良好で経済も安定成長しやすい状態
「孤」:経済格差が適正範囲外-治安も経済も不安定化しやすい状態


さて、ちなみに、すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、これはドイツ哲学でいうところの弁証法、アウフヘーベン(止揚)そのものです。上の図で、
徳→正
孤→否
益徳→合
と置き換えてやれば、そのまま弁証法、アウフヘーベンの説明図になります。


おわりに

もし冒頭で書いたような「アメリカが世界の盟主の座を降りてしまった、あるいは、降りる準備を始めてしまったのではないか」という私の読みが仮に、残念ながら、当たっていれば、これから、日本にとって極めて厳しい時代が訪れるかも知れません。
つまり、日本全体としてかなり強度の「孤」の状態になってしまうかも知れません。

仮にそうなったとしたら、今回私が書いた枠組みに沿って考えると、日本は、政治リーダーから一介の庶民に至るまで、一丸となって「益徳」に励まなければならない、ということになろうかと思われます。

しかしもちろん、これはあくまでも理想論に過ぎません。到底、一個人が扱えるようなことではあり得ないので、とりあえず自分一人だけでも「益徳」につとめるしかないか、と考えるのが現実のようにも思えます。
さてここでも理想を追い求めることと、現実的な対処をすることが両方とも正しい、と考えたとき、私なりの答えの一つが「とりあえず、ブログ上だけでも取り急ぎ発表しておこう」ということになり、それで今回、かなりの時間をかけて、この長ったらしいエントリーを書き上げました次第であります。

もちろん、今回書いたようなアイディア、考え方は私なりの、私自身に適するような方法論に過ぎない、かも知れません。
しかし、もし一人でも多くの読者の皆さま方に、「ああ、ここの部分は自分にも役に立ちそう」と思って頂ける箇所があれば、あるいは、少しでも多くの皆様方に「ユングやフロイトの個人心理学がマクロ経済や政治を考える上で役に立ちそうだ」と思って頂けたとしたら、私としましては、幸甚の至りと存じます。

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コメント

1324:温故知新

確かに、三橋氏の超人的な速筆力や、藤井聡氏の京大教授&内閣参与というポストを
もってしても、一連の財政理解は普及の壁に当たっている感がありますね。

しかし私の頭の片隅にも「だからこそ論理が研鑽される面白い状況になった」と
ほくそ笑んでいる、マッドサイエンティストのような哲学者がおります(^ ^;ヾ

財務官僚、マスコミ、そしてネットでしばしば見られる、内容に関わらず
批判すること自体を批判するナイーヴな論調にもまさに殺意を覚えるほど激しく怒り、
心底忌み嫌い、今でも理性的にはそうですが、そういう大人たちは小学生の頃の自分
と同じ心理状態なのではないかと思うようになりました。
当時は「たけしの誰でもピカソ!」というテレビ番組の審査員にクマさんこと
篠原勝之氏がいて、採点や講評が辛口なので子供心に反感を抱いていました。
その内容にはろくに関心を払わずに(!) そういう個人ばかりで構成された社会
を相手にするなら、怒りは何の役にも立たないと悟りました。

関係なさそうなものをくっつけるといえば、廣宮氏と飯田泰之氏あたりが組んで
論文を書くことが実現されれば、経済学界を変えていくのに最も有効なのではないか
という気がします。以前、財政規律について何か考えられそうな気がするとtwitter
でつぶやいていましたし。少なくとも他の財政出動派の論客には、
そんな大胆なコラボレーションをする時間や発想があるとは思えません。
もちろん現実的にはやはり難しいかもしれないので、言うだけタダというやつですが

2014/01/03 23:29 | 末広優 #/bJOijDs URL [ 編集 ]
1325:新年おめでとうございます。

国の借金問題とは直接関係ありませんが、「善」と「悪」について、私なりの考えを。

その前に、価値観を提起するつもりはありません。あくまで、善と悪をどう理解するか、言ってしまえば「捉え方」です。

仮に、「人の欲心を満たす(与えることを含む)」ことを「善」と定義したら、自分自身の欲心もそこに入ってきますから、例えば、自分の欲を満たすために「万引き」したとして、自分にとっては「善行」となります。しかし、商品をタダで持って行かれた店側からすれば「悪行」です。

では、「人の生命を維持する」ことを善と定義してみます。例えば、目の前に今にも餓死しそうな人がいて、自分はその人に与えられる食料を持ってないのだけれど、自分のすぐ横に食料を山ほど持っている人がいるとします。ところが、食料を山ほど持っているこの人は、ドケチの生き標本のような方で、餓死寸前の人が目の前にいようが自分の食料は絶対に譲らないと言い張る。だから、ドケチのその人から食料を少しだけ奪い取って、餓死寸前の人に与えた。餓死寸前の人の生命を維持できたことは「善行」だけれども、食料を奪われた側からすれば「悪行」です。

要するに、善悪は「表裏一体」であり、極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、世の中には善も悪もありません。ただ単に「立場」の問題です。

ところが、人間はほとんどがそのことを理解できず、世の中には「絶対的な善」と「絶対的な悪」があると思い込んでいます。

先程の例を見れば、万引き犯のケースだと、99%の人が「万引きした奴が絶対的な悪」と思うだろうし、餓死寸前の人のケースだと、「餓死寸前の人を救った人が絶対的な善」だと思うでしょう。

しかし「略奪」という行為は同じです。「略奪は善か悪か?」という質問をされれば、これも99%の人が「悪」と答えますが、であるならば、食料を略奪して餓死寸前の人に与えた行為も「悪」でなければなりません。

このとき、人は「ドケチの生き標本」に「悪」のレッテルを貼って、食料を略奪した側を「善」だと言って正当化します。

つまり、「善行」には同時に「悪行」が存在しているのです。同じ「行為」の中にほぼ必ず善と悪が存在しているのだから、従って、善と悪を中和し、差し引きゼロにしなければ、人間のやることなすことに「評価」が付けられ、人間はそれに振り回されることになります。

というよりも、人間は善と悪にレッテル貼り、そうやって自らの思考を簡素化することによって、「外来情緒」に頼っているのです。

善も悪も、自らが決めた正義や信念ではなくて、誰かが決めた「ルール」に基づき、そこに迎合することで「孤立化」を防いでいるに過ぎず、もっと言えば、孤立化するという「被害妄想」により、自らの思考を自らの意志で停止させ、疑問を抱かないよう、自らをコントロールしているのです。

私はそのことをとやかく言うつもりはなく、私もごく一般的で日本人的な善悪の価値観を持っていますし、その価値観に基づき自らを律しています。

だがしかし、考え方として、「人は自らの意志で、本来中性的である物事について、極端な方向に偏りたがる」という本質を理解しているので、一時的に「とりあえず固有価値観を捨てて、できうる限りゼロになってみる」という作業ができます。

国の借金問題についても、「大丈夫だ派」「もうダメだ派」、いずれも極端な方向に価値観を持っています。

では、その根本である「外来情緒」がいったいどこから来たのか、先程のように「孤立化」を防ぐために、マスコミを多数派だと思い込み迎合しているのであれば、マスコミを大丈夫だ派に懐柔するよりありません。もしくは、「大丈夫だ音頭」で四面楚歌状態にし、マスコミとの間の絆をぶった切るか。

いずれにせよ、即効性は望めそうにありません。

となれば、孤立化への不安よりもさらに根本的な問題、つまり「常識」に対して何等かのアプローチをかけるということです。

「1+1=2」は常識ですが、これと同様に「借金=悪」という常識を覆す必要があります。

しかしながら、常識を覆してしまい、借金まみれの人が量産されてしまえば、そのことに責任を取れるわけでもありません。

従って、「うちはうち、よそはよそ」という常識を駆使し、一旦ニュートラルにギアを入れることが必要ではないと思います。

以前、とある本の中で「うなぎの繁殖」について書いてありましたが、その時点において著者は、うなぎがどこで繁殖活動をしているのか不明だとし、少なくとも川でないことは確かだから「海のどこかでよろしくやってんだろう」と、結論を書いていました。

これが「ヒント」になるのではないかと、ふと思いました。

今現在もうなぎは存在し、我々はうなぎを食べているわけだから、うなぎはどこかで繁殖しています。どこで繁殖しようが、うなぎが存在することは事実なのだから、それで良いではないかと、そういうことです。

「繁殖している」という事実さえあれば、とりあえずは問題ないのだから、例えば、「政府が借金をちゃんと返済している」という事実があれば、ともすれば「もうダメだ派」の思考をニュートラルにできるかもしれません。

具体的には「買いオペ」を引き合いに出し、「日銀が政府の借金を返済しているのだから、大丈夫だろう。政府はそのくらいのこと分かってるから、これからも上手いことやってくれるさ。マスコミとかは多分心配性なんだよ」というふうに、一旦、他人事に持ち込み、ニュートラルにしてしまえば、そこから外来情緒を切り崩していき、思考停止状態から解放できるのではないかと思う次第です。

2014/01/04 16:55 | 硫黄島 #- URL [ 編集 ]
1326:

ちょっと考えすぎだと思います。
お金=借金だということを知識として広める以外に手はないでしょう。勿論それが難しいわけですが、それだけのことだと思います。

2014/01/04 17:22 | asd #- URL [ 編集 ]
1336:

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

以前の夏バテの時のように、廣宮さんが体調不良などで
ぶっ倒れてたわけではないことが分かり一安心です♪
有意義な4か月を過ごされたようで何よりです。

でもって、日本だけでなくアメリカも、色々と大掃除や
後片付けの時期になったんだな~と改めて思いました。
年末には大掃除をして、新年の良い年を迎える準備をしますもんね。



2014/01/10 10:59 | 白珠 #- URL [ 編集 ]

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