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廣宮孝信 ひろみやよしのぶ

Author:廣宮孝信 ひろみやよしのぶ
工学修士(大阪大学)、都市情報学博士(名城大学)。
2009年、著書「国債を刷れ!」で「政府のみならず民間を合わせた国全体の連結貸借対照表(国家のバランスシート)」を世に送り出した経済評論家、"国家破綻セラピスト"です。
「アイスランドは財政黒字なのに破綻!」、「日本とドイツは『破綻』後50年で世界で最も繁栄した」--財政赤字や政府債務GDP比は、国家経済の本質的問題では全くありません!
モノは有限、カネは無限。国家・国民の永続的繁栄に必要なのは、国の借金を減らすとかそんなことでは全くなく、いかにモノを確保するか。モノを確保し続けるための技術投資こそがカギ。技術立国という言葉は伊達にあるわけではなく、カネとか国の借金はそのための手段、道具、方便に過ぎません。
このように「モノを中心に考える」ことで、国の借金に対する悲観的常識を根こそぎ打ち破り、将来への希望と展望を見出すための”物流中心主義”の経済観を展開しております。”技術立国・日本”が世界を救う!
 お問い合わせは当ブログのメールフォーム(下の方にあります)やコメント欄(内緒設定もご利用ください)や、ツイッターのダイレクトメッセージをご利用ください。

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605:「哲人宰相」李登輝 元台湾総統①――「死から出発して生を考えるのが『武士道』」――新渡戸稲造は“人生の先生”

2014/03/01 (Sat) 16:25
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先月21日、台湾で李登輝 元台湾総統の講演を聞いて参りました。
非常に感銘深いところが多かったので、かいつまんで紹介させて頂きたいと思います。

※以下、
・当日の李氏の口述内容の廣宮によるメモ
・当日配布された二冊の冊子(いずれも、李登輝氏の著作)
 「人類と平和」(参考文献〔1〕)
 「特集『メメント・モリ』」(参考文献〔2〕)
を参照しながら書くこととします。


●「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」

李登輝さんは1923年、日本統治下の台湾・台北市に生まれました。
ご本人曰くは、日本の教養重視政策の恩恵を多分に受けることができ、若いころは死ぬこととは何か、生きることとは何か、ということを徹底的に考え抜く日々であったとのことです。

そのような死生観の思索をするなかにおいて出会った重要な思想の一つが、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)の『武士道』であり、李氏曰くは、

「死から出発して、いかに生きるかということを考えるか、が『武士道』」

ということになります。

※『葉隠(はがくれ)』で言えば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という発想法です。


さて、その新渡戸稲造は、実は台湾の農業と工業の近代化と発展に極めて重大な役割を果たしたのだそうです。
特に製糖業について、衰退しつつあった台湾の製糖産業(小規模零細が主)について、その潜在能力を新渡戸は日本内地の需要のみならず欧米に比肩し得るものだと看破し、台湾総督府 民政部殖産局長心得としてわずか3年の在任中に台湾の製糖業を確立(大規模、近代化)しました。それが1940年代にはハワイを追い抜き、台湾は瞬く間に世界屈指の砂糖産地となってしまったのだとのことです。

その新渡戸を台湾に招いたのが、第4代台湾総督の児玉源太郎によって民政長官に抜擢された後藤新平でした。

李氏によれば、その後藤新平は1,080人もの「役立たず」の官吏を解雇するという大ナタを振るい、新渡戸らのような有為な人材を台湾に招いたとのことです。
後藤がこのような辣腕を振るえたことの背景には、指導者たる者に必要不可欠な強烈な信仰があったはずであり、李氏はその後藤の信仰対象とは「天皇」あるいは「国家」ということではなかったかという推測を述べています(なお、李氏自身はキリスト教を信仰の対象としています)。

このように「『信仰』が無ければ指導者たり得ない」ということを学んだことから、李氏は「後藤新平は指導者としての先生」としています。
また、『武士道』を著した新渡戸から人生哲学を学んだことから、李氏は「新渡戸稲造は人生の先生」としています。

※ちなみに、ウィキペディアによれば、児玉源太郎は長州出身、後藤新平は仙台藩士の子弟、新渡戸稲造は盛岡藩主用人の子息です。つまり、旧“官軍”側の児玉が、旧“幕府軍”側出身の後藤を招き、その後藤が同じく旧“幕府軍”側出身の新渡戸を招いたことになります。
 李氏にとっての二人の重要な“先生”がともに、日本における旧“幕府軍”側出身者ということは、非常に興味深いところですが、自身の立場と重ね合わせる部分も大きいのかも知れません。
 というのは、李氏のような旧日本統治下で高等教育を受けた内省人(ないしょうじん)は、戦後、大陸からやってきた国民党軍から迫害の対象とされ、李氏自身も2.28事件(1947年)のような大量虐殺事件において命からがら逃げ延びたという経緯があるからです。
 自らを迫害した恨み骨髄の仇敵というべき国民党に入党し、数奇な巡りあわせによって蒋経国から後継者に抜擢され、ついには総統にまで上り詰めた李氏にとって、自らを“迫害”した官軍側の児玉から抜擢され、私怨を脇に置き、無私/公益重視の発想で国家に奉仕した後藤や新渡戸に対して大いなる親近感を覚えたのは、極めて自然なことではなかったかと思われます。



●李登輝哲学の真髄:「私は私でない私である」

さて、李氏の死生観/人生哲学の形成過程について簡単に要約するならば、

「“死”から出発して考えれば、無私、公益重視の“生”という考えにたどり着く」

ということになろうかと思います。


李氏曰くは、

・中国的な発想:「我就是我」(私は、私だ!)
→私益重視の発想=「生きる」ことについて「生きる」ことからしか考えない


・日本的な発想:「我是不是我的我」(私は、“私ではない私”である)
→公益重視の発想=「生きる」ことについて「死」から発想して考える


とのことです。

※ミクロで見れば、日本人だからと言って全員が公益重視かと言えば、決してそうではありませんし、中国人だからと言って全員が私益しか見えていないかと言えば、決してそうではないでしょう。
 しかし、確率統計論的に、あるいはマクロ的に見ると、
 ・中国:私益重視→無秩序、不調和、不均衡
 ・日本:公益重視→秩序、調和、均衡
の傾向が若干強いと言えるかも知れません。
 これは例えば、自動車の運転態度を観察すればよく分かります。
日本では、特に、関東辺りでは、車線減少によって二車線の車列が合流しなければならないような状況では、二列の自動車が交互に譲り合い、秩序だって一列に統合されます。
 中国では…私は10年ほど前、北京でタクシーに乗ったことがありますが、いやあ、それはもう凄まじかったです。彼の地でタクシーに乗ってみれば、別に誰かに追われているわけでも何でもないのに、ハリウッド映画なみのスリリングなカーチェイスを実地で体験することになります。現地の観光ガイドによれば、北京ではバイクに乗る人は最近は全くいなくなった、とのことでした。なぜならバイクになど乗っていれば確実に死ぬからです。
 このように見ると、日本はより秩序的であり、中国はより無秩序的であると言えないことはないでしょう。なお、日本でも関西においては関東ほどお上品ではありませんが、北京に比べれば確実に秩序的と言えます。



さて、参考文献〔2〕では、この「我是不是我的我」(私は、“私ではない私”である)という、李氏がこれまでの90年の人生において到達した境地について、次のような解説があります:

---
「私は私である」という、「私の生」の側からの生き方ではない、「神から与えられた生」を自覚して、己を尽くして生きる無私の生き方がそこにはある。

指導者として、あるいは、この世に生を享けた者にのみ「与えられる道」を生きる者として、次世代へ繋ぐ(つなぐ)確かな意志も、その言葉には込められている。

混迷の時代は、暗闇をもたらす「我は我なり」という人間の業に端を発する。

大変革の転換点にある今、時代は、日本人は、「私でない私」を経験できるか――。
---


ちなみに、講演の質疑応答の際、李氏は「いまはG0の時代(覇権国の無い時代)です」と発言しています。また、参考文献〔1〕において李氏は

---
国際的環境が現在のようにリーダーシップ国家がいなくなった時に、グローバル資本主義を強調する力のある国は、力の現実として、その力の行使を行うだろう。そうして正義を高く掲げて戦闘行為を正当化するような政策や言動をとるだろう。

国際的環境の変化によってもたらされた戦闘を正当化するような理念の先走った戦争を前にして、より現実を踏まえた慎重な政策が可能でないかと考えざるを得ない。人間の幸福な立場からして平和を模索すべきである
---

と書いています。
 つまり、李氏の現状認識は、世界の無秩序化ということになります。
 そして、そのような状況の中においては、政治指導者が無私・公益重視の思想をしっかりと持つことが極めて重要なのだ、ということになろうかと思われます。

 李氏が講演で最も強調して述べたかったことの一つは「私が日本人から学び取った無私・公益重視の思想こそが、これからの混迷の時代において、より一層重要なのですよ、日本人の皆さん!!!」ということではなかったかと拝察致します次第です。


 ちなみに私(廣宮)は、今年の1月3日の当ブログで、アメリカが世界の盟主を退こうとしていること、それでこれから日本は非常に困難な時期を迎えるであろうことを述べた上で、今こそ心理学や脳科学や生理学で経済や政治を考えることが重要であると主張しました。
 また、その際に核となりそうな「徳」という概念について、孔子や老子の言葉を引用し、それを主にフロイトやユングの心理学の枠組みを使って解説しました。

 このタイミングで李登輝さんの①世界の無秩序化という現状認識と、それゆえに②無私・公益重視の思想をしっかりと持つことが極めて重要とする思想に触れたことは、かなり感慨深いものがあります。

 李登輝さんの言葉を追っていると、恐らく「この混迷の深まる世界において、指導者はより一層、徳を積むべし」という主張をされているのかな、というのが私の解釈です。

 一方で私自身は、指導者のみならず、一般大衆がより一層各自で「徳を積む」ことを志向することが望ましい、と個人的には考える次第です。
 というのは、いくら国家の指導者が能力的にも人格的にも超人的に優れていたとしても、それを支える一般大衆たる国民がその指導者の人知れぬ努力や苦労を一切顧みることなく、「あいつは毎晩高級ホテルのバーで飲んでいやがった」とか「高級料亭で天ぷらを食っていやがった」とか「1000円もするカツカレー食ってやがった」などの、かなりどうでもいいような理由でその指導者をいちいち引きずり下ろすようでは、そんな国はどんなに頑張っても永遠に不安定なままとなってしまうように思えるからです。
 私の個人的な考えは、「国家の命運を決めるのは国民全体の性質(指導者の資質を含む)」であります。

 なお、私が『老子』の第28章から解釈した「徳」というのは、簡単に言うと「ある考えとその正反対の考えは両方正しいと考えること」です。
 この枠組みで生と死を考えると、生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」と考えることができます。


 そして、
 李登輝さんは死と生について、次のように述べています:

  死について:「死んだら自然に還るだけ」
(参考文献〔2〕)

  生について:「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」(講演での口述)


いかがでしょうか?

 この李氏の死生観を、ぜひ今一度私が先ほど書いた「生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」と合わせて読んでみて下さい。もし、何か感じるところのものがありましたら、当エントリーのコメント欄か、私のフェイスブックか、ツイッターに感想をお書き下されば幸いに存じます。


 さて、「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」というのはスコットランドのトーマス・カーライルの『衣装哲学』の引用であり、李氏はこれを新渡戸稲造による講義録でお知りになったようです。
 そして、講演で李氏はこの『衣装哲学』に相当な力点を置いて話されていましたので、次回はこの『衣装哲学』に関係する内容を中心に紹介させて頂きたいと思います。


 最後に、「“死”から出発して考えれば、無私、公益重視の“生”という考えにたどり着く」という李氏の死生観/人生哲学の形成過程について、私なりの解釈を書いておきますと、以下のようになります:

・「死んだら自然に還るだけ」である。

・また、一人の人間の生涯など、宇宙全体の数十億年の歴史に比べれば所詮一時的なものであり、「生とは借り物、“衣服”に過ぎない」。

・上記のように死について考え、死から出発して生を考えれば、より高い水準の冷静さと客観性と理性を得ることができる。

・より高い水準の冷静さと客観性と理性を得ることができれば、「他者の利益をも増大することが結局は自己の利益を増大することになる、すなわち、社会全体の利益が増大して初めて自己の利益も安定的に増大する」という当たり前のことに気づきやすくなり、私益の増大のみならず公益の増大という目的意識を持つことが可能となる。
※李氏は私益についてあまり触れていませんが、公益の増大に貢献するための資力がまったく無ければ、どんな個人も公益に資することは不可能になると考えられます。
 例えば、「公務員は公益に資するべきであるから、全員無給で滅私奉公、ボランティアにせよ」というようなことは、どう考えても不可能です。
 よって、一人ひとりの個人の公益への貢献を極大化させるために必要な最低限度の私益の増大は、決して否定すべきではないでしょう。




 『武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり』

 というのは、

 『生きるとは、公益について考えることと見つけたり』

 と解釈することもできるわけか!



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コメント

1354:こんにちは

よく「死生観」と言いますが、これは死と生を区切った言い方であり、観念的には間違った言葉でもあると私は思います。

「生きる」と「死ぬ」を全く別の事象として考える限り、その範疇から出ることはなく、従って、生と死は決して相入れないのです。

とはいえ、いきなり生と死を同じものとして見ろと言われても、99.99%の人は無理だと思います。ごく普通に生きている人々にとって生と死は「白と黒」くらい違うものであり、白と黒が同じだと言われても、まず受け入れないでしょう。

そこで、言葉の意味として考えてみると、「生きる」は不確定形(未来形)、「生きている」は確定形(現在進行形)ですから、我々が実感している(もしくは実感できる)のは「生きている」のみであり、「生きる」は想像の産物にすぎません。一方、「自身の死」もまた想像の産物ですから、その意味で生と死は同じものだと思います。


いきなり話が変わりますが、かのヘーゲルは『海の流れが海洋の新鮮さを保つが如く、戦争は国民の倫理的健康の凝固を防ぐ。永遠の平和は堕落するのみであって戦争は人道に適う』と言ってます。私はヘーゲルに詳しいわけでも何でもないので、彼の言わんとすることの真意は分かりませんが、文面だけを捉えれば「正論」だと思います。

「永遠の平和」とは不確定形であり想像の産物ですから、「永遠の平和=生きる=堕落」と私は解釈しています。

つまり、個々人における永遠の平和の絶対条件として存在する「自然の死=寿命を全うする」が堕落の根幹であり、そこに「不自然の死=戦争」の観念が加わることで、人は人生の「終焉」を意識するようになり、終焉を意識するということは「永遠」が否定されるわけですから、残された時間は限定的なもので、その時間をいかに有意義に使うかを人間は考えるようになると、私はそのように解釈しています。

本質的には「欲求」の問題であり、人が生きている限り欲求が発生しますが、死は欲求を否定します。

キリスト教の「7つの大罪」ではありませんが、仏教にせよ神道にせよ、欲は罪深いものとしています。

罪の根幹は欲求であり、「窃盗」「詐欺(嘘)」「淫行」「婦女暴行」など、いずれも欲に起因します。

また、欲は「生きる」という想像の産物なしには発生しませんから、例えば、明日死ぬと分かっていて、それでも他人の物を盗んでやろうというような者はほとんどいないのと同じで、つまり、「死」には欲を強制的に断ち切る効果があります。

「死=戦争」と解釈すれば、「戦争が社会を正常化する」という概念は、実は大変理に適っており、「社会」というマクロの視点で見たときには戦争ですが、「個人」というミクロの視点で見れば、まさしく「武士道」であります。

要するに、ヘーゲルが言っているのは実は武士道であり、視点が社会か個人かの違いしかなく、理論的には同じです。

もし神の意識というものがあるなら、人類が永遠の平和に甘んじて堕落すれば、自然の摂理に基づいて神は人類に戦争という「浄化装置」を与えることになるでしょう。

福沢諭吉は『西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」というのがあって、愚民に理を以って諭すことは不可能だから、威を以って脅すより外なく、従って、これは愚民自らが招く災いである』と喝破されていますが、戦争も同じ理屈であり、人類自らが招く災いであると同時に、そこに何等かの意味を持たせるのであれば、「堕落を浄化する装置」として神(自然)が人類に与えてくれたものと解釈することも可能です。

また、戦争はやはり悲惨なものですから、できるなら避けて通りたいものですが、自称平和主義者たちが言うような「個人主義(欲望主義)」は堕落の元凶であり、結果的に戦争を引き寄せます。だから、「永遠の平和」というぬるま湯に浸かって欲のままに生きるのではなく、「死」を想定し(=武士道)、自らに与えられた時間は短いということを自覚して、自分のためではなく人のために生きる「他人主義」な人生を過ごすことこそが戦争を回避する唯一の手段なのではないかと私は思います。

とどのつまり、「死」を覚悟して初めて人間は「生きる(活きる)」のであり、生と死は違うようで実は「同じ」であると、それが「武士道」だと私は解釈しております。

武士道の精神をできるだけ多くの人たちが共有することで、より平和な社会になり、個人にとっても堕落を防ぐことができ、これほど理想的な哲学は他に存在しないのではないと私は思っています。


附則すると、欲は「ない」を具現化したものであり、「ない」ものを「ある」に変えてしまおうとする願望が欲です。しかし、どうしても「ある」に変体してくれないとき、つまり、願望が達成されないときに人は「ストレス」を感じます。では、願望が達成されたらストレスがなくなるのかといえば、そんなことはありません。「ない」を「ある」に“変える作業”を欲しているわけですから、願望が達成されたら、また次の願望が生じ、ストレスが発生します。私はこれを「欲求とストレスの無限ループ」と呼んでいますが、この無限ループが「不幸」の元凶であり、また、欲求の元凶が不確定未来形の「生きる」です。

しかしながら、欲なくして「幸」もありません。

「川」に例えると、不幸とは、上流のダムに水(欲)が溜まりすぎて、水を一気に放出したら川が溢れて周囲を洪水にしている状態です。

これを適正に保つためには、雨(欲)がドシャ降りにならないよう抑制する必要があり、どうやって抑制するかと言えば、欲の元凶である「生きる」に「死」の概念を注入して「中和」してしまうのです。

先程も言ったように、「生きる」も「死ぬ」も不確定未来形であり、概念としてどれだけ持っていようが、確定しているのは「生きている」という現在進行形だけです。

従って、死を想定することは生を否定することでも何でもなく、むしろ、生を健全に保つうえで必要不可欠なものであると私は思っています。

考えれば考えるほど、私にとって武士道とは、これほど理想的な哲学は存在しないと思ってしまいます。病院の心療内科や精神科に通って薬を処方してもらうよりも、新渡戸稲造の「武士道」を塾読したほうが、よほど精神衛生によいのではないかと思ってしまうほどです。

2014/03/02 11:40 | 硫黄島 #- URL [ 編集 ]
1355:抽象性と具体性の視点

「生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」からは、「武士は名誉ある死を選ぶ権利が
ある」とか、「人間には自己決定権がある」という連想もできますが、どうも抽象的ですね。
古典としての価値は認めうる一方で、老子は抽象的すぎて論評に値しないのではないかとも
思えてきました;

「死んだら自然に還るだけ」というのは、やや語弊がある表現ですね。
「灰は灰に、塵は塵に」は検索してみたら「聖公会祈祷書」の一節らしいですが、
肉体だけ自然に還し、魂の方はイエスから永遠の命を授かるよう祈る文脈でした。

私自身は不可知論者なので、自然に還るだけというインド的な輪廻も、死後の魂も信仰は
しません。万物の根源を探る物理実験や、脳活動の観測技術が進むのを待つのみです。

肉体など衣服にすぎないという信念を持てるのは、やはり李登輝元総統は強い精神の
持ち主なのでしょう。肉体は衣服のように簡単に着脱できるものではなく、
人によっては牢獄とも思えるものです。

ちなみに私は一身上の都合により某民主党議員の選挙区に転職しましたが、少なくとも
その会社の経営理念は形而上的な信仰を混じえず、サービスという世俗的な公益を追求
するもので、そのための積極的な行動が現場でも実践されていました。
流民や遊牧民が弱肉強食の争いをしてきた大陸とは違い、谷間の田畑で顔見知りが協力
して生き残ってきた村社会のよい面が継承されていると感じます。

彼らの多くも選挙では棄権したり、政策的な意味での腐敗議員に投票してしまって
いるとすれば、足りないのはやはり公益の精神よりも政策論の文化であり、それを
彼らの生活サイクルの延長で伝えられるような切り口ではないかと思いました。

これらに対しても、老子や武士道からはまた違った思想が汲み取れるかもしれませんが。

2014/03/02 14:01 | 末広優 #- URL [ 編集 ]
1356:Re: こんにちは

硫黄島さん
コメントありがとうございます。

> よく「死生観」と言いますが、これは死と生を区切った言い方であり、観念的には間違った言葉でもあると私は思います。
>
> 「生きる」と「死ぬ」を全く別の事象として考える限り、その範疇から出ることはなく、従って、生と死は決して相入れないのです。

 なるほど。そのように考えることもできるのですね。
 私の場合は、生物学的にあるいは生理学的に考えるとやはり「死と生は密接に関連するが互いに排他的な正反対の概念」となるのではないかという認識をしております。
 例えば、人間に限らず生物個体の免疫系は「死を回避して生き延びる確率を高める」ように作用しますし、恐怖やストレスのシステムも死を回避する行動をとるように作動するようになっています。この観点から、生と死は互いに排他的な概念と言えるのではないかと思う次第であります。
 但し、集団においては必ずしもこの通りにはならず、個体が集団を守るために自ら死を選ぶこともあります。たとえば、ミツバチは巣に近づいて来た他の生物種に対しては巣を守り、自分の属する集団を守るために命を捨てて攻撃にかかります(ミツバチは一度針を刺すと息絶えてしまうようになっています)。集団の「生」、つまり、種の保存のためには生物個体が自ら死を選ぶという現象は他の場合にもよく見受けられますが、このような現象からは、死と生が互いに密接な関連があるという結論をひとまず得ることができるのではないかと考える次第です。


2014/03/02 15:08 | 廣宮孝信 ひろみやよしのぶ #- URL [ 編集 ]
1357:Re: 抽象性と具体性の視点

末広さん

こんにちは。

> 「生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」からは、「武士は名誉ある死を選ぶ権利が
> ある」とか、「人間には自己決定権がある」という連想もできますが、どうも抽象的ですね。
> 古典としての価値は認めうる一方で、老子は抽象的すぎて論評に値しないのではないかとも
> 思えてきました;

うーん、なるほど。そのように感じられたのですね。
私の認識としましては1月3日のブログでかなり“具体的”に「老子の28章の概念を使って『死ぬほど嫌いな人に対する激しい怒りの感情を、中和して鎮静化させる方法』を検討」しているつもりでありますので、一応以下に引用しておきます:

---
・自分が心底から忌み嫌う人物がいるとする。
・その人の持つ性質とは、自分という存在にとって完全に対極にある、正反対の性質である、と考えてみる。
・そのような「自分とは正反対の性質」もまた、自分が意識できていないだけで、自分の無意識の中に存在する(かも知れない)と仮定する。
・それが存在することを肯定し、認め、とりあえずその存在のための所領を安堵してやることでうまく「治め」ると、それは個人レベルでのいわゆる一つの「徳を積む」ということになる。

ここで注意事項ですが、その存在を否定すると、往々にして厄介なことが起きます。
その存在を否定するということは、つまり、その対象を抑圧していることになり、たいていの場合、暴れ出すことになります。

最近のニュースでも某国で某少数民族が抑圧されて暴発し、テロ事件が頻発していることが伝えられていますが、我々の心の中で群雄割拠しているさまざまな性質、さまざまな存在も、その存在自体を否定されると、「抑圧された」と感じ、あなたに対していわば「テロ行為」を繰り返すことになり得るわけです。

なお、このような心の中で暴れているような存在を特定し、なだめてやることで精神の平衡を取り戻す、ということが、フロイトの精神分析学やユングの分析心理学の目的とするところのものであります(と、私は解釈しております)。
そして、このような心理学は、いわゆる精神病患者の人たちだけでなく、大多数の健常者の日常生活においても極めて有用であると思われます。
上記のような老子的な定義の「徳を積む」ということを標榜するのであれば、フロイトやユングの心理学はなおさら有用であると言えるでしょう。

---

そしてもう少し生理学的、脳科学的な説明を加えておきますと、否定は死に関連する感情(恐怖や怒りなどの否定的感情)と密接に関連付けられていますし、肯定は生に関連する感情(愛や感謝などの肯定的感情)と密接に関連付けられています(これは、1月3日の当ブログでも“具体的”に書いている「連合学習」の概念です)。
 老子の28章を用いて「正反対のものを両方とも肯定する」という私が書いている発想は、この脳科学でいう連合学習の仕組みと密接に関連しています。
 例えば、人が誰かから自分の発言を否定されると、まあ、それほど良い気分にはならないし場合によっては猛烈に怒り出すでしょう。逆に、自分の発言を肯定されれば、普通は「おお、君は話がわかるじゃないか!」という具合に多少なりとも良い気分になるでしょう(例外はもちろんあるでしょうが)。
 否定は連合学習の仕組みにより死と関連する感情(否定的感情)とつながりのある記憶を引き出すので、不快感(=ストレス=危険を回避するためのシステム)を引き出しやすいということになります。
 この時、物理的に攻撃されているわけでもないのにストレス系が作動してしまうのが人間の不思議なところですが、生物学的に仕方がないのでしょう。
 このような仕組みから、仮に相手が理論的に正しいことを言っていても自分の発言を強く否定されてしまっていると、「くそ、こいつムカつくぜ」と否定的感情を持つことになり、相手の考えを受け入れにくくなります。この仕組みを知ることが重要なのです。
 このような人間の体内にある物理的な仕組みを踏まえた上で、老子的な発想で「自分も相手も肯定する」ということを通じて理性と客観性を維持し、それによって新たなアイデアの創造を行ったり、他人とそれなりにうまく折り合いを付けたりということが可能になると、私は考える次第です。
 「生きることも、死ぬことも両方とも正しい」というのは「生と死を両方とも肯定する」ということで、死や生について、否定的感情(とりわけ、死に対する恐怖)を極力抑え、出来るだけ肯定的感情を伴って理性的、客観的に受け入れてみるのはいかがでしょうか、という提案です。(ブログ本文ではとりあえずあまり解説なしの状態で読者の皆さんがご自身でどう感じるかを感じてみて頂きたかったので、あえて詳しく書きませんでしたが)。


それと私から一つ助言があります。末広さんがお書きになっている

>「生きることも、死ぬことも、両方とも正しい」からは、「武士は名誉ある死を選ぶ権利がある」とか、「人間には自己決定権がある」という連想もできますが、どうも抽象的ですね。古典としての価値は認めうる一方で、老子は抽象的すぎて論評に値しないのではないかとも思えてきました;
>「死んだら自然に還るだけ」というのは、やや語弊がある表現ですね。

というような書き方は、私の書いたことに対する一方的な否定であり、ご自身が書かれたことに対する一方的な肯定となっているように思われます(「自分を肯定し、他人を否定する」という状態)。
 もし末広さんが「自分と相手を両方とも肯定する」という私の提案する老子スタイルを“具体的”に実践することを試みるとすれば、私に対して質問を行うというのが一つの良いやり方になるでしょう。
 質問をするスタイルであれば、工夫をすれば、自分と他人を両方とも肯定するということを具現化することが可能となります。肯定することの脳科学的、生理学的な意味合いは上述の通りです。

 私は、「自分自身と自分とは違う意見を持つ他人とを両方とも肯定する」ということがそれほど簡単なこととも思っていませんが、出来る限りそれができるように工夫をすること、あるいは少なくともそのことをひとまず試みるだけ試みてみようとすることが「徳を積む」ということだと考えています。

2014/03/02 15:52 | 廣宮孝信 ひろみやよしのぶ #- URL [ 編集 ]
1358:Re:Re: 抽象性と具体性の視点

確かに私にもそういうところはありました(^ ^;ヾ 21歳の頃に書いた論文では
「諸賢の批判を待ちたい」と書いておきながら、査読者の無理解に激怒してしまった
ものです。脳科学のラマチャンドラン博士も、自分の学説を否定されて怒らない学者
はいないと書いていました。私がレスしたことのある学者・ブロガーはたいてい
「くそ、こいつムカつくぜ」と連合学習しているはずです(!)

私は道家を標榜するものではありませんが、今後は否定的な文脈でも相手の人徳や
器の大きさに甘えず、もっと肯定を意識してみようと思います。

近視眼的に「知」と「守」の違いや「雌雄」「白黒」の定義を気にしているとさっぱり
分かりませんが、さらに陰陽の二元論や中庸の徳に抽象化することで、なんとか
イメージが構築されてきた感じがします。

2014/03/02 23:01 | 末広優 #- URL [ 編集 ]
1359:Re: Re:Re: 抽象性と具体性の視点

末広さん
ご丁寧なお返事を頂きありがとうございます。

> 私は道家を標榜するものではありませんが、今後は否定的な文脈でも相手の人徳や
> 器の大きさに甘えず、もっと肯定を意識してみようと思います。
> 近視眼的に「知」と「守」の違いや「雌雄」「白黒」の定義を気にしているとさっぱり
> 分かりませんが、さらに陰陽の二元論や中庸の徳に抽象化することで、なんとか
> イメージが構築されてきた感じがします。

いや、私も「道家」を目指すものでは必ずしもありません(笑)。
私は「徳」という言葉の意味をより明確に理解したいという目的でたまたま『老子』で徳について書いている28章に行きついただけなのです(実をいうと、『老子』は6,7年前に買っていたのに最初の2,3ページしか読んでいなかったのです。その後、ユングやフロイトの心理学や脳科学に関する書籍、あるいは医学生が読むような免疫に関する書籍などを読んだ上で、もう一度『老子』の28章を読み、ようやく自分なりの「徳」の定義が出来た次第です)。

なお、道家が分かりにくければ兵家的なアプローチもおすすめしたいと思います。

正反対のものを両方とも肯定的に認識するという概念は『孫子』の

己を知り、彼を知れば、百戦あやうからず

にも見ることができます。

“己”はもちろん「自己」です。
一方、“彼”は「非自己」つまり自己の否定形であり、自己の正反対の概念です。
これら互いに正反対の概念を両方ともよく「知る」ことで、状況をうまく打開できるようになる、という意味と解釈することもできるわけです。

『孫子』にはほかにも

必生はとらわれ、必死は殺される

というような言葉もあります。戦場において「生きよう」という意識が過剰になると敵に捕らわれてしまうし、「死んでやる」ともがき過ぎると敵に殺されてしまう、というような意味合いです。そういった互いに正反対の感情を両方ともうまく治めてバランスを取るのが戦場において味方の戦果を最大化させるための最適解ですよ、という具合でしょうか。

 また、老子の28章に興味をお持ち頂いているのであれば、私が書いたそれぞれの言葉の定義はあくまでも参考程度に取って頂き、ご自身で独自に分かり易い言葉に置き換えてみて頂ければよいのではなかろうかと思います。

2014/03/03 10:21 | 廣宮孝信 ひろみやよしのぶ #- URL [ 編集 ]
1360:Re:廣宮考信 様

ご返答ありがとうございました。

おっしゃるとおりだと思います。生物学的にいえば、生と死は人間の考えるそれよりもはるかに密接なものだと思います。

自然界では「種の保存」が何よりも優先し、個体の生がそれに優先することはほとんどないと思います。

クロゴケグモだったか、セアカゴケグモだったか、母蜘蛛は自分が守ってきたタマゴからふ化した子蜘蛛たちによって食べられてしまいます。

不思議なことに、子蜘蛛たちは生まれながらにして母蜘蛛の身体を食べるようインプットされているかのようで、母蜘蛛もまた自分の運命を知っていたかの如く、それを受け入れ抵抗しません。

巣を襲ってきたスズメバチを集団で取り囲んで蒸し焼きにし、仲間ごと葬るミツバチと同様、種の保存が個体の生より優先しているのだと思います。

これは何も自然界に限らず、人間にもそういった側面があります。最も代表的な例は「神風特攻隊」でしょう。

人間と動物の違いは、動物が「本能」に限りなく忠実に生き、ミツバチのように種の保存に危険信号が灯ると、個体の生に優先する「外敵の排除行動」が自然に発動しますが、一方人間は「個体の価値観」が主たる行動原因ですから、外敵(異種)と内通したり、支配下に入って生き長らえたりします。種の保存の原則でいえば間違っていないのですが、動物の本能を「民族主義」と仮定すれば、人間の場合は「個体主義」でしょう。

それが逆に「人間らしい」といえばそれまでですし、このあたりの価値観も人それぞれになるかと思いますが(個体主義だから)、生物学的にみれば、「単細胞生物(ウィルス・バクテリアなど)」に近い生体だと言っても過言ではないかと思います。

とにかく、自然界においては「誰かの死=誰かの生」という摂理を基本として生体を形勢していますから、個体主義でなく民族主義で生きている動物たちにとって、個体の死は新たな生(死を免れた生を含む)の「置き換え」として位置付けられているのではないでしょうか。従って、生も死も「同じ」なのです。民族主義の立場から見れば何も問題はないでしょう。

とどのつまりは捉え方、すなわち「立場(価値観)」の問題でして、「民族>個体」を是とするか非とするか、「民族<個体」を是とするか非とするか、もちろん時と場合によって変わってきますが、このあたりの価値観が動物と違って人間は一辺倒でないぶん、あるいは「だからおもしろい」であったり、あるいは「だからダメだ」であったり、これまた人それぞれですけども、私はこれらを総じて「だからおもしろい」と捉えています。

ただし、個人的には民族主義に近い立場ですから、私にとって「価値観」と「行動原因」は異なり、個体主義(=左翼思想的)の方々に同調することはありません。


さて、動物に「恐怖」の感情があるかどうか、人間である私には知るよしもありませんが、高所を嫌う犬のような例もありますから、人間の抱く恐怖とは違うとしても、個体の生命を維持するための「無意識的行動抑制機能」を持ち合わせていることは間違いないでしょう。

ということは、動物の中にも個体主義の価値観があるということで、必ずしも民族主義が全てというわけではありません。

また、個体主義の価値観がある以上、当然ながら「ストレス」もあると思います。

しかし、人間と違うと思うのは、動物は必要以上のストレスを抱えないということです。

再び言葉の意味になりますが

1.生きる → 不確定未来形

2.死ぬ → 不確定未来形

3.生きている → 現在進行形

4.死んでいる → 現在完了形


生物が自身に起こっている事象として感知できるのは「3」だけです。

民族主義で生きている動物にとって、「1」と「2」でどちらが自身の未来なのか不明であるため、従って、ないものだと見なして差し支えないと思います。ゆえに、「3」を脅かす存在に対して恐怖やストレスを感じることはあっても、「1」や「2」に対して恐怖やストレスはありません。

人間は個体主義、悪く言えば「ご都合主義」で生きていますから、「3」に加えて「1」を基本にしています。「2」については、『分かっちゃいるけど想定はしていない』のです。なぜなら、それ事態が恐怖(ストレス)だからです。

しかし、民族主義でない人間だって、神風特攻隊でなくとも、明日には不慮の事故や突然の病で死んでしまうかもしれないのだから、「2」に恐怖を感じるのは当然だとしても、想定しないのは「非合理的」とも言えます。

となれば、「1」しか想定しないのも非合理的なわけで、未来の生が確定的な以上、自身の理想的な未来像から逆算して現在必要な「欲」が生まれ、多くの場合「欲が達成されない」というストレスが発生し、自身の未来が続くと思っている限り無限ループします。

このストレスが厄介者でして、「2」の恐怖に起因するストレスは、天国や極楽浄土といった「死後の世界」を信じるなどして受け入れることは可能ですが(「1」と「2」を融合させる)、「1」に起因するストレスは無限ですから、受け入れ難いのです。

「武士道」が理想的だと思うのは、人間やはり見たこともない天国や極楽浄土を盲信するのは非現実的だったりしますから、当然ながら脱落者も出ますが、武士道は「死の美学」という、ともすれば「1」の理想的な未来像と重なる「2」を明確に示しているところです。

天国や極楽浄土を「非現実的な2」とすれば、武士道は「現実的な2」なのです。

死に対する恐怖というのは、おそらく動物全てに等しくあるものだと思いますが、だからといって「見ざる・聞かざる」は、「死を想定しない=1」ですから、ストレスの無限ループを引き寄せるだけです。武士道にはこの無限ループを「断ち切る」だけのパワーがあり、なおかつ「現実的」であると、私はそう思います。

また、どれだけ死を美化しても、イスラム原理主義のようなものは問題かもしれませんが、そうでない限り、美しい死に様には「美しいプロセス」が必要ですから、すなわち、「1」を経ずして美しい死に様は有り得ないわけでして、従って、武士道が「1」を否定することにはならないと思います。


またもや長々と失礼しました。

2014/03/03 11:33 | 硫黄島 #- URL [ 編集 ]
1361:死ぬことを覚悟しているか

 こんにちは。更新ご苦労様です。

 「死」と「生」の話についてですが、「死」があるからこそ、真面目に「生」きなくてはならないという感覚ですかね。「死」ななければ、究極的には何もする必要がなくていいわけですからね。

 藤井聡先生が最近ハイデガーの「本来的時間性」をよく引用されていますが、死を先駆的に覚悟している者こそが本来的な人間ということらしいです。つまり、自分がいずれ必ず死ぬと自覚していない者が大衆化(byオルテガ)しやすい(=私益重視に走りやすい)ということですね。

 自分が死ぬ(10年後に死ぬか、50年後に死ぬか、はたまた今日死ぬか)ということを知ってさえいれば、私益を重視することにあまり意味を見出せなくなってしまいます。死ぬことを知っていれば、死なないために最善を尽くそうともします。

 また、公益を重視することが私益を損なうかと言うとそうでもなく、長期的に見ると社会の安定・秩序というものは不安定・無秩序な状態よりも私益がはるかに勝るとも言えます。

 確かに現代社会において、自分がいつかは必ず死ぬと自覚していない方が多くなってきているような気もします。昔に比べれば、死ぬ確率(病気・戦争・災害etc.)は減り、死を意識する機会自体が減っているということもあります。これ自体はよいことかもしれませんが、生きるために乗り越えるべきハードルが少なくなったということは、生の活力の低下をも意味します。医療が発達すると健康意識も薄れ、インフラが発達すると防災意識も薄れ、戦争が起きないと国防意識も薄れるのかもしれません。とは言っても、人間は自分の死と向き合うと言うのはなかなか難しいことですね。直接的に死を覚悟できるのが望ましいのですが、間接的にでも「死を意識しているわけではないが善く生きることができる」という手法があればよいですね。

2014/03/03 12:11 | くらえもん #- URL [ 編集 ]
1362:Re: Re:廣宮考信 様

硫黄島さん

> 自然界では「種の保存」が何よりも優先し、個体の生がそれに優先することはほとんどないと思います。

なるほど。言われてみるとまさにその通りかと思いました。

> これは何も自然界に限らず、人間にもそういった側面があります。最も代表的な例は「神風特攻隊」でしょう。

いやはや、まったく以て我が意を得たりです。ありがとうございます!


> とにかく、自然界においては「誰かの死=誰かの生」という摂理を基本として生体を形勢していますから、個体主義でなく民族主義で生きている動物たちにとって、個体の死は新たな生(死を免れた生を含む)の「置き換え」として位置付けられているのではないでしょうか。従って、生も死も「同じ」なのです。民族主義の立場から見れば何も問題はないでしょう。

よく理解できました。ありがとうございます。

>
> とどのつまりは捉え方、すなわち「立場(価値観)」の問題でして、「民族>個体」を是とするか非とするか、「民族<個体」を是とするか非とするか、もちろん時と場合によって変わってきますが、このあたりの価値観が動物と違って人間は一辺倒でないぶん、あるいは「だからおもしろい」であったり、あるいは「だからダメだ」であったり、これまた人それぞれですけども、私はこれらを総じて「だからおもしろい」と捉えています。
>
> ただし、個人的には民族主義に近い立場ですから、私にとって「価値観」と「行動原因」は異なり、個体主義(=左翼思想的)の方々に同調することはありません。

興味深い考察と感じました。
この硫黄島さんの考察に沿って李登輝さんの総統時代の事績を考えてみますと、彼は民主化を断行したという点では「個体主義」の行動をとりつつ、総体として台湾の自主独立を標ぼうしていますから「民族主義」も併せ持っているとみることができるかもしれません。
なお、この「G0」の混迷の時代において日本にとって妥当なのは、個体の権利をより良く保全するための民族主義寄りの路線なのかな、と私個人は想像する次第です。

>
> さて、動物に「恐怖」の感情があるかどうか、人間である私には知るよしもありませんが、高所を嫌う犬のような例もありますから、人間の抱く恐怖とは違うとしても、個体の生命を維持するための「無意識的行動抑制機能」を持ち合わせていることは間違いないでしょう。

 ちなみに、ですが、脳科学者らの知見からすると、大脳新皮質を持つ動物(人間含む)は恐怖を脳で感じ取るという意味で恐怖の感情を持つものと解釈できると思われます。大脳新皮質を持たないようなより“原始的”な動物の場合は、脳で感じる機能がなく、体がほぼ完全に自動的に動くという意味で恐怖の情動機能は持っているが、脳で感じることが無いので感情は無い、と解釈できるのではないかと思います。
 なお、アントニオ・ダマシオなどの脳科学者らの用語の定義では情動emotionは身体反応であり、感情feelingはその情動を脳で感じることを指します。
 この考えに沿って考えるとアメーバのような単細胞生物ですら恐怖の情動(=危険回避のための身体反応=ストレス反応)はあることになります。そして、アメーバには感情を感じるための脳がないので、感情は無いということになると考えられます。

>1.生きる → 不確定未来形
>2.死ぬ → 不確定未来形
>3.生きている → 現在進行形
>4.死んでいる → 現在完了形
>…
> 「武士道」が理想的だと思うのは、人間やはり見たこともない天国や極楽浄土を盲信するのは非現実的だったりしますから、当然ながら脱落者も出ますが、武士道は「死の美学」という、ともすれば「1」の理想的な未来像と重なる「2」を明確に示しているところです。
>
> 天国や極楽浄土を「非現実的な2」とすれば、武士道は「現実的な2」なのです。
>
> 死に対する恐怖というのは、おそらく動物全てに等しくあるものだと思いますが、だからといって「見ざる・聞かざる」は、「死を想定しない=1」ですから、ストレスの無限ループを引き寄せるだけです。武士道にはこの無限ループを「断ち切る」だけのパワーがあり、なおかつ「現実的」であると、私はそう思います。
>

うーん、なるほど。興味深いお話をありがとうございます。

2014/03/03 13:43 | 廣宮孝信 ひろみやよしのぶ #- URL [ 編集 ]
1363:Re: 死ぬことを覚悟しているか

くらえもんさん

>  確かに現代社会において、自分がいつかは必ず死ぬと自覚していない方が多くなってきているような気もします。昔に比べれば、死ぬ確率(病気・戦争・災害etc.)は減り、死を意識する機会自体が減っているということもあります。これ自体はよいことかもしれませんが、生きるために乗り越えるべきハードルが少なくなったということは、生の活力の低下をも意味します。

なるほど!これは良いことを教えて頂きました。
企業などが過去の成功体験にとらわれることで却って失敗してしまう「成功の復讐」というような言い方がありますが、死が感覚的に遠のいたことによって公益意識が喪失してしまうことによる「豊かさの復讐」とでもいうべきことが起こっている矢も知れませんね。ありがとうございます!

2014/03/03 13:47 | 廣宮孝信 ひろみやよしのぶ #- URL [ 編集 ]
1365:

「必生はとらわれ、必死は殺される」は初耳です。上手いことを言うものですね。
私の天命、あるいは自分にしかできないライフワークにおける軍事関係の優先順位は
あまり高くなくなってしまいますが、仏教・儒教・道教・神道だけが東洋思想ではないと
いうことで忘れないようにしておきます。そして他の諸子百家たちも。

2014/03/03 21:07 | 末広優 #- URL [ 編集 ]

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